第三〇話

 至誠は立ち上がる。
 先程まであった痛みはすでになく、むしろ体が軽いとすら感じた。

 先ほどの純白の燕尾服を纏った男が何者なのか分からない。
 それでも手には謎の冊子と道具が残されている。

 その事実は揺るぎない。

 至誠には未だ理解が及ばないことだらけだ。
 しかし、事情を知っているらしき人物がいると分かっただけでも大きい。

 同時に思うのは、質問はあれで良かったのか――という後悔だ。

 先の選択肢は衝動的といっていい。

 ――もっと冷静に熟考すべきだった。

 そう反省するが、至誠はすぐに思考を切り替える。

 ――このままクヨクヨしていても仕方がない。

 至誠に今必要なのは、現状の把握だ。

 この世界が自分の知らない世界だとして、今いるこの場所はどこなのか。どういった所なのか。置かれている状況はどうなっているのか。

 無知ほど恐ろしいことはない。

 そう考え、至誠は周囲へ目を配る。

 裏路地かと思ったが、それにも満たない袋小路だった。

 今居るのはその最奥らしい。

 すぐ横に壁があり、鉄格子の付いた扉が固く閉ざされている。

 この袋小路は少なくともL字型になっている。
 少なくとも今立っている場所から開けた路地を見ることは叶わない。

 せいぜい二メートルほどの道幅は舗装されているとは言えず、敷き詰められたレンガは年期を物語るように風化を露見させている。

 同時にジメジメとした空気、少しばかり鼻につく異臭に気付く。

 隅の方にはゴミらしき物が散見している。
 生ゴミこそ少ないものの、食器類や空き瓶らしきものがあり、それが異臭の原因だと推察できた。

 至誠は壁沿いに視線を上げ、なるほど――と納得する。

 壁には集合住宅のように窓が多く見られるが、いずれも固く閉じられている。
 窓を開けるとジメジメとした空気や異臭が入ってくるようでは誰も開けたがらないだろう。

 至誠は先ほどまで寝ていたであろう場所へ視線を落とす。
 八〇センチメートル程度の高さがある樽が並んでおり、その上に一畳ほどの板が乗せられている。

 一見するとゴミの塊だろうが、至誠には簡易的なベッドのように感じた。

 その脇には六つの樽が積まれ、小さな壁を形成している。

 この袋小路に誰かが入ってきたとしても、直視はされない。そんな配置だ。

 ひとまず袋小路の出口まで様子を見に行こうと、至誠は一歩踏み出す。

 それと同時に、至誠は体が自由に動かせなくなった。

 今度はなんだ――と考えるが、直後聞こえてきたのは聞いた事のある声だった。

『――ッ! 至誠ッ!! 大丈夫!?』

 至誠の体は己の意志に反して勝手に動き、腰をわずかに落とし身構え、周囲を警戒するように視線を周囲へ滑らせた。

 声の主はミグだ。

 驚きは確かに感じたが、それ以上に安堵した。

 謎の男は確かにミグの存在をほのめかしていたが、目覚めるのがいつになるかは分からない。その間、まったく知らない世界を一人で行動しなくてはならないかもしれない――そう懸念していたからだ。

 ミグは周囲に脅威が無いことを確認すると、至誠に体の自由を戻す。

 ミグに自分の体を任せたことがあった。
 しかし、不意に体が自分の意志に反して動くと言うのは当分慣れそうにない。
 そんな心境ではあるが、感情の優先順位を意識する。

 ――今はとにかく何がどうなっているのかを知る事だ。決して、ミグの不思議な力に感嘆や驚愕を漏らす時じゃない。

「はい、今のところ」

 至誠の落ち着き払った声を聞き、ミグは溜飲が下がるといったため息を脳裏に響かせる。

 しかしそれも一瞬の事で、すぐに謝罪を口にする。

『ごめんね、驚かせてしまって』

 自分の体が自分の意志に反する。
 それに驚かない者はほとんどいない。
 至誠もその例外に漏れず、内心では驚きと焦りを感じていた。

 ミグは宿主の大まかな感情を読み取る事ができる。
 だからこそ、驚きを感じたが自制心を持って平静を取り戻した経緯を読み取れていた。

「いえ、大丈夫です」

 むろん、至誠の内心は複雑に感情が混ざり合っている。
 焦り、不安、恐怖。
 それでも、意志によってそれを押さえ込んでいる。

 ――強いな。

 ミグは率直にそう思う。

 ――もし自分が見知らぬ世界に投げ出されたら、こうも自制できるだろうか。

 そう考えてのことだ。

 だが懸念しておかなければならないことでもある。

 無理矢理に押さえつけられた精神は、一度崩れ始めると一気に決壊するからだ。
 少なくとも、一度はパニックを起こし嘔吐までしている。

 ――いつまたパニックが起こるかもしれない、って考えておかないと。

 だが先にいくつか確認しておかなければならない事があり、ミグはそのまま本題を切り出す。

『至誠はどこまで覚えてる?』

 ミグの口調におちゃらけた雰囲気はまるでない。
 至誠には焦燥感すら含まれているように感じた。

「えっと……空中で投げ出されたところ、ですね」

『なら記憶障害はなさそうだね。けど――』

 その途中でミグは言葉を詰まらせる。
 何か良くないことがあるのだろうか――と至誠は懸念が脳裏に過ぎると、すぐにミグはすぐに弁明する。

『ああ、ごめん。大丈夫。なんでもない。……ただ、肉体の損傷が全くないから驚いただけ。怪我してないに越したことはないよ』

 至誠には目が覚めた直後に尋常ではない痛みがあった。

 ミグの言っているのはその事だと理解し、燕尾服の知らない男性が治してくれたことを告げるべきだと考えた。

 黙っていても何のメリットもない。
 むしろその人物をミグが知っているならば助かるからだ。

「さっき、ミグさんが起きる直前なんですが、壮年の男性に声をかけられました」

『――ッ!! 何かされたの!?』

 焦りをにじませる口調は、ミグの余裕のなさをうかがわせる。

「その人が魔法か何か……詳しくは分かりませんが、治療してくれました。それまでは全身が痛かったのですけど、ほんの数秒でなくなりました」

『ただの通りがかりの善人――とは思えないね。心当たりとかある? もしくは名前を聞いたりは?』

「いえ。名前も聞けませんでした」

 ただ――と、冊子と謎の金属片を視界に収まるように腕を上げ続けた。

「その人からこれを貰いました」

『――なっ!?』

 その手にあった冊子と金属片を視界に収めたミグは、言葉を失った。

『そんな……まさか――そんな事って――』

 その口ぶりは動揺し、うまく言葉が出てこない様子だ。

『いやでも――やっぱり、何か重要な――』

「知ってる方ですか?」

 事情を知っているかもしれない人物だ。
 彼女がその人物を知っているなら話は早い。

 そう思い至誠は待つが、ミグは言葉を押しとどめ沈黙が続く。

 さらに踏み込んで聞くべきか、ここは引くべきか考えていると、ミグは意を決したように口を開く。

『アーティファクト三一番』

 ゆっくりとした口調は、動揺よりも畏怖に近いと至誠は感じた。

『アーティファクトを生み出すアーティファクトとも、超越者とも呼ばれている人型のアーティファクト。通称、ニコラ・テスラ』

「接触するとまずい人物……って事ですか?」

 もしかしたら危険人物だったかもしれない。
 しかし仮に接触するべきではなかったとしても、あの状況で避ける事などできない。

『むしろ逆。いくら探しても見つからなくて、その存在に懐疑的な人は少なくない』

 至誠の懸念は外れていたようで、考えられる最悪の状況よりはだいぶマシらしい。

 同時に、ひとつの疑問を覚える。

「見つからないのに、存在は知られているんですか?」

『一番有名どころだと、彼の執筆したとされている『霊術大全』ってアーティファクトの本があるの。他にも彼の作ったとされているアーティファクトには、必ず署名が入っている。ニコラ・テスラって。たとえば、これとか』

 ミグは至誠の右腕を動かし、金属片の模様を指さす。
 それが文字で、ニコラ・テスラと書かれているのだと至誠は察した。

 そして――と、ミグは説明を続ける。

『ごく稀に、向こうから接触してくる事例がある。いや……向こうから接触してこないと見つからない、だったかな……』

 ミグは自分を落ち着かせるように長い吐息を零し、「ともあれ――」と続ける。

『至誠が目覚めて一日程しか経っていない。にもかかわらず、向こうから接触してきたって事は……やはり至誠は何か特別な存在なのかも』

 特別な存在。
 至誠は自分のことを特別だとは考えないが、それは自己評価によるものだ。

 自分では普通だと思っていても、他の主観から見れば異質であったり、まったく違う評価が下ることもよくある話だ。

 そして、謎の男が最後に発した言葉が脳裏をよぎる。

「別れ際に、僕の事を『新たなる器』って言ってました」

『新たなる……器?』

 ミグは至誠の体を使って頭を抱える。
 その心境を吐露するかのように。

「出会い頭では、明らかに僕の事を探している口振りでした。それに日本の事や不浄の地から逃げてきた事も知っていたようです」

『日本を……。つまり、異なる世界を行き来できるか、あるいは暗黒時代以前から居るってことだよね――』

 その言葉を受けて、至誠は記憶の奥底で何かが引っかかる感触を覚える。

 ――ニコラ・テスラ。どこかで聞いたことがある気が……。

「その名前をどこかで聞いた事がある……気がします」

『本当!? それはどこで?』

 見切り発車でそう口にしたはいいものの、それ以上は有益な内容を思い出せなかった。

「――少なくとも、この世界で目覚める前の話だと思うんですが……。すみません、今すぐは思い出せそうにないです」

 思い出せた時に改めて伝えると告げると、ミグは「分かった」と話を戻す。

『うちは人型アーティファクトの研究に深く携わっていたわけじゃないから、これ以上は知らないんだけど……。ただやっぱり、至誠には何かあるんだと思う。普通の人はまず関わることの出来ない存在だと思うから。――ちょっと体を借りるよ』

 ミグは改めて断りを入れると、金属片を持っている左手を目線の高さまで掲げる。
 右手にあった冊子を左腋に挟むと、すいた右手を金属片に添えた。

 直後、魔法陣らしき模様が至誠の手の周りや、皮膚の上に浮かぶ。

『鬼道で簡単に見ただけだけど、今すぐ悪影響が及びそうにはない。だけどどんな能力が内包されているかは……現時点では、まるで分からないね』

 時間にすると一分にも満たない時間でミグは結論づける。

 その間にミグは冊子の方を手に取り直し、本文を確認する。

『霊体における多段階層構造の構築と運用について――』

 冊子を開き最初の見出しをミグは呟くように読み上げる。

 至誠にはその文字がまるで分からなかったが、日本語であっても理解できないことだけは理解できた。

『霊体に霊体を内包する方法――って事かな。って事は死霊術関連かも……』

 そう呟きながら、ページをめくり目を通していく。

『霊体の抽出と注入について……』

『子霊体へのアクセス方式と管理権限について……』

『祝福による弊害と、その注意点……』

 ざっくりと目を通すと、しばらくの沈黙の後に呟きは再開する。

『どういう状況を想定した霊術なんだろ……』

 至誠は答えるどころか、その呟きに割って入ることも難しい。

 だが事情を知っているかも知れない男が渡してきた物品だ。
 その内容の精査を邪魔する事は、自分の不利益にも繋がりかねない。

 そのため至誠はただ静観する。

『死霊術なら死後の、消滅前の魂に干渉するのが基本……。だけどこれは生前の体から魂を抽出するって事だよね……。いや、死後でも霊体があるなら可能か……』

 考えを整理するように呟いていたミグだったが、ふと我に返り自分を叱咤する。

『考えはじめると、ふけって周りが見えなくなっちゃうのは治さないと――』

「いえ、大丈夫です。僕としても、何かの手がかりがあれば助かりますし」

 まだ冊子の中身を見ていても構わないと至誠は告げるが、いや――と冊子を閉じる。

『アーティファクトについてはひとまず置いておこう。今は時間的猶予がないかも知れない』

 至誠の体を使い、ミグは視線を上空へと向ける。

 裏路地から見上げる小さな空には太陽はなく、青空と小さな雲が流れているだけだ。

『今は正午くらいだね。この街に不時着して、八時間から一〇時間くらい経ってると考えた方がいい』

 太陽は直上になかったが、日の入り方と影のできかたからある程度の時間を予測したのだろうと至誠は理解する。

 その上で、ミグは視線を再び戻しつつ懸念を告げる。

『追ってきた怨人えんじんは速度に特化しつつ防御も厚く、強力な個体だった。けど、その個体を数分内に処理できる実力がこの街にはある。これは至誠が気を失った後の出来事だけどね』

 ミグの言わんとしている事を至誠もなんとなく理解し、おそるおそる問いかける。

「他の三人は……どうなったんですか?」

『結論から言えば、ほとんど分からない。唯一、テサロがまだ生きている事は分かる。彼女の体内にはウチの体の一部――副次臓器があるかね』

「今の僕のように、テサロさんの体を動かすと言うのは――」

『距離が離れすぎていると出来ないんだ。だから動かそうと思ったら、ある程度近づかなくちゃならない』

 それでね――と、ここからが本題だと言わんばかりの口調で、ミグは続ける。

『ウチらは選択しなくちゃいけない』

 選択という言葉が何を意味しているか、ミグの言葉を待たずして理解できてしまった。

「助けに行くか、行かないか……と言う事ですか?」

『そう。というか、本来なら助けに行けない。選択肢なんてなかったはずなんだ』

 ミグは謝罪をにじませたような口調でその理由を教えてくれる。

『至誠が気を失ったのは、生き残るために至誠の体をうちが完全に支配下に置いて、無理矢理に力を使ったせいなの。けど、その代償として体中の筋肉や筋、骨なんかの様々な箇所が損傷していたはずだった』

 本来であれば、痛みを止め、最低限の応急処置を施して早急に待避する。
 それが唯一の選択肢のはずだった。

 だが謎の人物によってその損傷は完治している。
 すなわち、必ずしもその選択肢をとる必要性はなくなった。

 いや、むしろ逆だ。

 完治した状態だからこそ、より生存率が高い状態で待避することができるようになった。

『けど、怪我はない。そして今なら不浄の地に面していない箇所は手薄だと思う。身の安全を考えたら、ここで動くしかないと思う』

 ミグと同じ結論に達するが、至誠はさらに考えを巡らせる。

『うちとしては、三人を助けたいって気持ちはもちろんある。だけど、この街や国の情勢も戦力も分からない。風習や文化も不明で、土地勘もない』

 すなわち、救出は絶望的だということだ。

『それに至誠は、三一番ことニコラ・テスラが自ら接触してくる人物。ましてや他に前例のない未知の国、あるいは未知の世界の住人。君の代わりはいない』

 悪い言い方をすれば、三人の代わりは国にいくらでもいる――ミグはあえてそんな言い方をした。

『うちはリネーシャ陛下の眷属として、至誠を皇国まで無事に連れて帰り、そして身の安全を担保する使命がある。その使命と責務は、三人よりも重い……』

 本心ではそう思っていないのだと、至誠にはすぐに理解できた。
 それほど断腸の思いが伝わる言い草だったからだ。

 助けたいと思っている――と言っていた方が本心だろう。

 だが理想を押し通せないだけの不利な状況と責任が、ミグにそんな言葉を口にさせているのだとくみ取った。

 だからこそ、あえて聞いてみる。

「それは、僕が決めていいことなんですか?」

 もしも真に職務に忠実であるならば、ミグの言い回しは矛盾する。

 ともかく今は逃げる――そう言い切ってしまえばいい。
 最悪、ミグは強制的に体を動かせるのだから。

 それでもあえて至誠に同意を求めるように言葉を選ぶのは、いくつかの理由が考えられる。

 一つは至誠が逃走の途中で反発する可能性についてだ。

 逃走劇がどれほどの期間になるかは分からない。
 空を飛び一日以内に付けるのであれば、このような事は言わないだろう。
 ある程度長期間に及ぶのであれば、途中で勝手な行動をすれば生存率を下げることになる。

 ミグも先ほどまで寝ていたのか、あるいは気を失ったのか。少なくとも意識は無かった。

 そしてその間、至誠の体は自由に動かせるようだ。

 すなわち、途中で「やっぱり三人を助けに戻る」なんて言い始めた場合、ましてや睡眠中に勝手に動かれた場合のリスクが非常に高い。

 ならば今、二人で「自分たちの身の安全を優先する」と決めておいた方が良い。
 仮に途中で気持ちが揺らいでも、あのとき決めたのだからと説得もしやすいものだ。

 二つ目はミグの心情的にもそれが楽なことだ。

 ミグの使命において最も大事なのは至誠という個人の生命だ。

 テサロやリッチェと深い親交があることは、不浄の地から逃げるときのやりとりを見ていれば想像に難くない。
 仲間か、親友か、家族か。
 どのような親交だったかは至誠には分からないが、断腸の思いが言葉に乗ってしまう程の親密さであったことは分かる。

 だが最優先事項である至誠という個人が「自分の身の安全を優先する」と言えば、ミグは「親しい者を見捨てた」と判断したのではなく、使命において優先事項である至誠の「意向を尊重した」と考えることができる。

 ミグの心理傾向を知っているわけではないが、そう思った方が精神衛生上よい人は多いだろう――と、至誠は考える。

『そういうわけじゃないけど――』

 どう思っているにせよ、ミグとしてはそう言うしかないだろう。
 だから、至誠は遮るように口にする。

「少しだけ、考えても良いですか?」

『……わかった』

 もう一度メンタルをリセットしておこう――そう考えながら再び空へと視線を向ける。

 見上げた狭い青空に小さな雲が緩やかに流れている。

 至誠は意識を天空のさらにその先の宇宙へ向ける。

 地球。
 太陽。
 太陽系。
 銀河系。
 銀河団。
 スローン・グレートウォール。

 たとえその比較が想像の中だけであろうと、身長たった一七四センチメートルの自分はあまりにもちっぽけな存在だと教えてくれる。

 宇宙が誕生して一三七億年。

 ではそれ以前には何があったのか。
 宇宙は広がり続けているとされていたが、ではその外側には何があるのか。
 宇宙が誕生した頃、それ以前に自分という概念はどこにいたのか。
 数億年後、数百億年後、自分という自我はその時どうしているのか。

 その事を考えると、いつも決まって底なしの恐怖に襲われる。

 宇宙的恐怖。
 至誠はそう呼んでいた。

 どんなに不快な思いをしても、どれほど苦汁を嘗めても、その宇宙的恐怖の前では全てがちっぽけに思える。

 怨人と呼ばれていた化け物もそうだ。

 忌避したくなる気持ち悪さはあるが、宇宙の規模からしてみれば塵にも満たないちっぽけな存在だ。

 そんな宇宙的恐怖で、他に抱いている負の感情を全て飲み込ませる。

 それが至誠のメンタルをリセットする切り札だ。

 だが宇宙的恐怖だけでは心を疲弊させる。
 そのままでは心がすり減り病んでしまうかも知れない。発狂してしまうかもしれない。廃人になってしまうかもしれない。

 それほどの諸刃の剣だ。

 だから至誠は、決まって祖父のある言葉を思い出す。

「生まれてきたことに意味はない。生きることに価値はない。それでも人はなぜ生きるのか。なぜ生きたいと願うのか」

 そんな祖父の言葉は、よく周りから偏屈な暴論だと揶揄されていた。

「人は皆、死に際に良き人生だったと充実して死にたいのだ。富も権力も名声も、死の花道を彩る手向けに過ぎない。どれほどのモノを手に入れようとも、最後の最期で自分に満足できない輩の人生は無価値だ」

 それでも至誠は、祖父の論理が好きだった。

「人が動物と違うの何か。二足歩行か? 言葉か? 文字か? 科学か? 断じて違うぞ。ただ長生きする輩と、生存本能に従う動物と何が違う。富や権力を求める輩と、群れのボスになりたがる動物のどこが違う。人の生涯など、動物となにも変わらんではないか。では、人が人たる所以はどこにあるのか」

 お札もただの紙だ。宝石もただの物質だ。美術品も原材料だけを見ればガラクタも同然だ。

「――それは無価値のモノに価値を見いだせる事だ」

 しかし人はそれらに価値を付加する。
 動物として生きて行くには不要にも関わらず、そこに価値を見いだす事ができる。

「ならば人が人たり得る生き様とは何か。意味のない人生に、自分自身が価値を見いだせるか否かだ」

 生まれてきたことに意味はない。
 どうせあと五〇億年もすれば太陽は寿命を向かえ地球は飲み込まれ、地球上の生物はもれなく死滅する。

 なればこそ。
 無価値で儚い一瞬の命の灯火に価値を見いだせた者が、真に人たり得る生き方だ。

「家族も他人も国も法律も宗教も関係ない。今際いまわきわに誇って死ぬ。満足して死ぬ。納得して死ねる。価値ある生き方とは、そういうものだ」

 偏屈だと言われていた祖父の言葉は、至誠のメンタルをリセットするための後段の一家言いっかげんだ。

 一瞬にして鳥肌が全身を通り過ぎ、同時に心の奥底から奮い立つ感覚を覚える。

 この格言があるからこそ、至誠は宇宙的恐怖に正面から向き合うことができている。

 至誠は考える。

 自分は今、知らない世界にいる。
 ここが遙か未来か、異世界かは定かでは無い。

 しかし、今、自分はここに居る。
 ならば「我思う、故に我あり」。
 今はそれでいい。

 では、自分の生き様とは、価値のある生き方とは何か。
 自分が死に際に満足たりえる生き方とは何か。

 彼女らは恩人だ。

 仮死状態だった自分を蘇生してくれた。
 食事もごちそうになった。
 化け物から無事に逃げ切ってくれた。

 たとえ出会ってからの時間が短かろうと関係ない。
 一宿一飯の恩義であろうとも、その相手が今度は困っている。
 今この瞬間にも苦しんでいるかもしれない。

 ならば「自分だけが助かればそれでいい」なんて恥を晒した生き様に価値はあるのか?

 ――いや、ない。

 だったら答えは一つだ。

「――ミグさん」

 至誠は視線を地上へ戻しながら、口を開いた。

「あのとき言った言葉は、変わりませんよ」

 ミグはまごつく心境を抑えられなかった。

 至誠の心理の波が急速に恐怖に振り切れた。
 かと思えば一瞬にして反転し、直後に高揚した。
 それに留まらず、今では穏やかになったからだ。

 この心理パターンは不浄の地にて一度経験していた。
 至誠はこの異常な心理の直後、不浄の地を脱する策を口にした。

『……あのとき?』

 そして今もあの時と同じように凜とした表情で告げる。

「全員死ぬか、全員生き延びるかです」

第二九話

「――至誠」

 

 声が聞こえる。

 その声の主を、至誠は知っている。

 

 ――智衛……姉ちゃん……?

 

「――矜恃を忘れるなよ」

 

 

 

 [ 2/10 11:11 ]

 

 

 

 まぶたをゆっくりと持ち上げ、至誠は目を覚ます。

 ――夢?

 なにか夢を見ていた気がする。
 目を覚ます直前に姉の言葉がかすめた気がした。
 しかしそれ以外の内容はまるで思い出せなかった。

 

 視界に飛び込んでくるのは見覚えのない光景だ。

 仰向けの視界の両脇には白い壁がそびえ、均等に木製の出窓が並んでいる。
 正面――本来であれば見上げた先には、青空が垣間見える。
 そこは一見すると路地裏のように思えるが、横になったままの態勢で確信を得るのは難しかった。

 

「ここは――」

 

 混乱する脳裏を整理しつつ、至誠は起き上がる――いや、起き上がろうとした。

 

「ッ――」

 

 痛い。
 その言葉すら出ないほど、引きつったような痛みが走る。

 全身が軋むように痛く、特に両足が酷い。

 

 しばらく痛みに耐えていると、幸いにして少しずつ痛みがひいてくる。

 だからと言って再度体を動かそうとすると、間髪入れずに痛みが襲ってくる。

 

 再び痛みの波が収まるのを待ち、可能な範囲で怪我の有無を確認しようとする。

 だがその為には体を動かさなくてはならない。
 しかし動かせば痛みの波が溢れてくる。

 体に力を入れる事によって痛みに襲われる事を理解し、今は仰向けの視界の中で何とか状況を確認しようとする。

 

 左隣は白い壁になっている。
 右側の壁との隙間は、せいぜい二メートル程度だ。

 壁には木製の出窓が均等に並んでいるが、その全てが固く閉ざされ、物音一つしない。

 視覚からは有力な情報は得られそうにない。
 一方で聴覚は、遠くから風の乗ってくる雑踏をとらえた。

 

 ――人の声だろうか。
 何を言っているかは分からないが、近くに誰かいるのは間違いない様子だ。

 だが、すぐ周りに居るわけではないようだ。
 今いる路地を抜けた先とでも言うべきか。

 少なくとも、すぐに声をかけられる距離ではない。

 助けを求めて声を上げるべきだろうかと至誠は考える。
 しかし大声を出すほど力めば、再び強烈な痛みが襲ってくるだろう。

 

 そのうえ、ここが日本でない以上、相手が友好的かは分からない。

 

 声を上げた結果、やってきたのが化け物だったら――全く動けない至誠では、なすすべがないのは想像に難くない。

 

 同時に掘り起こされる記憶は、名状しがたいほど気色の悪い化け物に追われた時のものだ。

 至誠は何とか精神を正常に保とうと試みるが、アドレナリンの切れた状態で思い出される光景はとても正気でいられそうになかった。

 

「……リセット……しなきゃ――」

 

 至誠は荒々しい呼吸のまま青空を見上げ、思考を宇宙へ飛ばす。

 

 

 

 しばらく意識を巡らせていると、至誠は平静さを取り戻す。

 同時に、化け物から追われていたが、どこかの街にまで逃げてきた事を思い出した。
 だがその途中で空中に投げ出された。
 地面が迫り来る所までは覚えているが、そこから先の記憶がない。

 

「いったいなにが――」

 

 どうなってるんだ――何も解決しないことは理解していたが、そう嘆かずにはいられなかった。

 

 だがこのままここで思考の堂々巡りをしていても埒が明かない。

 至誠は他に何かないかと再び周囲に目を配ろうとした。

 

 その直前、不意に耳に付く言葉は男の声だ。

 

「ああ、ここに居たかね」

 

 野太くやや年を感じさせるが、どことなく爽やかさも含まれている。

 そんな声は、建物の上から聞こえていた。

 至誠が見上げると、屋根から飛び降りてきている影を目にする。
 その着地は重力に逆らうように柔らかい動作をしていた。

 

 男は一九〇センチメートルはあろうかという長身だ。

 

 細身で純白の燕尾服を身に纏い、縦に長い純白のシルクハットをかぶり、柄に豪華な装飾の刻まれたステッキを片手に添えている。

 肌は白人を思わせる色白さで、顔はやや彫りが深く、左目に片眼鏡をかけ、垂れた目と皺の入った容姿は壮年期後半の紳士の様相に見える。

 

「目下ある人物から干渉を受けていてね。手短に済ませよう」

 

 男は意味深な言葉を投げかける。

 その意味するところは計り知れない。
 故に、至誠にとって敵なのか味方なのかもわからない。

 

「――あなたは?」

 

 そのため語調に自然と警戒心が紛れ込んでいた。
 だがその声はあまりにも弱々しい。

 

「なに、今の我が輩はしがない物書きにすぎない。すなわち君の味方でもないが敵でもないと言えるであろう」

 

 痛みが襲ってこない範囲で口を開けば、その弱々しい語気になるのは仕方なかった。
 しかし逆に痛みに襲われたからこそ、至誠の脳ははっきりと目覚めていた。

 

 そしてその口調や仕草、表情から、男が嘘を言っているようには思えなかった。

 だが本当のことも言っていない。
 あるいは小さな真実で大きな真実を隠そうとしている印象を受ける。

 とどのつまり胡散臭い。

 

「君には二つの権利が与えられる。しかしその前に賛辞を贈ろう」

 

 何の話か問おうと意識を男に向けていると、無意識に体に力が入る。
 その拍子に再び痛みに襲われ、表情が歪んだ。

 痛みが引くの耐え忍んでいると、男は遠慮なく言葉を進める。

 

「かの地の脱出劇は見事であった。よくぞあの少ない手札から成し遂げたものだ」

 

 そう語り、男は一度だけ指を鳴らす。

 直後、光が至誠の体を包む。
 それは目を眩ませるほどの光量だったが、それは密度の濃い魔法陣らしき紋様の塊だった。

 そう理解している頃には、不思議と体の痛みが引いていった。

 

「故にこれは、良いものを見せて貰った個人的な謝礼だ」

 

 まばゆい光が霧散する頃には、先ほどまでの痛みが嘘のようにかき消えていた。

 

 至誠は恐る恐る上体を起こすが、やはり痛みは襲ってこない。

 

「いったい――」

 

 なにをしたのか――そう問いかけたかったが、それよりも早く男は話を戻す。

 

「さて。今回は何が良いものかと我が輩なりに思慮を巡らせた。結果、こちらを選ばせて貰った」

 

 至誠が話の内容について行けていないことなどお構いなしに、男は言葉を続けつつ背後に腕を回す。

 その手が再び至誠の視界に戻った時、どこからともなく小冊子を手にしていた。

 

「これは――」

「現在執筆中の我が著書、『霊術大全』の草稿である。まだ一部の推敲が済んでいないのだが、まぁ術式理論に問題はないので安心して使うが良い」

 

 冊子を差し出しながらそう説明してくれるが、まるで意味が分からなかった。

 しかし『霊術』という単語が、記憶の奥底から掘り起こされる。

 

 ――魔法や鬼道のような不思議な力の一種だっただろうか?

 

 しかしどちらにせよ、どうするべきか判断が難しい。

 

 ――怪しさは禁じえない。罠かも知れない。だが救いの手かも知れない。

 

 だとしても、判断するには情報があまりにも不足している。

 

 

 

 

「ああ、そうか」

 

 至誠が返答を窮していると、男の方から口を開く。

 

「君のために日本語に翻訳しておくべきであったな。完全に失念していたよ」

 

 そういう話ではない――と口にしそうになるが、別の疑問がそれをかき消した。

 

「……日本語を、知っているんですか?」

 

 この場所が現実なのか異世界なのか、はたまた未来の世界なのかは分からない。

 しかし日本語を知っているならば日本を知っている可能性が高い。
 そして日本を知っているならば、至誠が今ここに至る経緯や事情を知っていてもおかしくない。

 ――もっともその場合、この世界に連れてきた、あるいは拉致してきた犯人側である可能性も出てくるわけだが。

 

「日本語の習得にはなかなかに苦労させられた。特に漢字を記憶するところだね。漢字に複数の意味と読みを混在させ、さらに組み合わせによる例外があるのは、正直どうかと思うね。気に入っている言語のひとつではあるわけだが」

 

 閑話休題――と、男はステッキの先を至誠へ指すように向ける。

 

「しかしながら本書における言語の壁は問題なかろう。君の中に入っている少女が目覚めたら見て貰うがいい」

 

 それがミグの事を指しているだと即座に理解できた。

 

「何か、事情を知っているのですか?」

 

 至誠は駆け引きや交渉は得意な方だ。
 拳での殴り合うなんかよりは、頭を使う方がまだ性に合っている自覚があった。

 しかし、至誠にはまるで事情がわからない。
 そして男は事情を熟知している様子だ。

 そんな人物に対し、駆け引きが出来るとはとても思えなかった。

 

 故に至誠は、愚直に問いかける選択肢を選んだ。

 

「なぜ僕はここに――」

 

 だが問いかけを遮るように音が周囲に響く。

 単なる雑音ではない。
 今この場には似つかわしくない、メロディと呼ぶべき音楽だ。

 

「すまないが少し失礼するよ」

 

 男は断りを入れつつ、至誠に背を向けながら左ポケットから何かを取り出す。

 ――スマホだ。

 

「何か緊急の要件かね?」

 

 男は背を向け、スマホらしき物体を耳に当てる。

 それは至誠が知る「スマホで通話」そのものだった。

 

「今まさに、その彼と会っている最中である」

 

 「彼」という単語が、自分を指しているものだと想像に難くなかった。
 すなわち通話相手も自分の事を知っている可能性が高い――至誠は男の言動に注視する。

 

「――そういう類いではない。安心したまえ。それでは失礼するよ」

 

 もう少し観察していたかったが、男はすぐに通話を切り上げ、スマホらしき物体をポケットに戻す。

 

「失礼した。話を元に戻そう。『なぜここにいるか?』との問いだったね」

 

 スマホについて、あるいは通話先の人物も事情を知っているのか等、聞きたいことは山ほどある。

 だが男は問いかけの内容を確認してきたので、ひとまずはそれを肯定した。

 

「質問権はそれで構わないのかね?」

「質問……権?」

 

 ――質問をする権利だろうか?

 先に権利がどうのと言っていたのを思い出していると、男は改めて説明を始める。

 

「君には二つの権利が存在している。一つは我が輩から物品の贈与を受ける権利だ。何を贈るかは我が輩の裁量で、かつ受領するかはそちらの自由だ。今回でいればこの冊子となる」

 

 男は再び至誠に小冊子を差し出す。

 ――罠かもしれない。

 しかし至誠は、受け取らないことによって男の心証を悪くするのでは――と懸念を抱いた。

 今は下手に出て少しでも情報が欲しい状況だ。
 そしてこの男は、現状で唯一の足がかりかもしれない。

 

「よろしい。必要ないのであれば別に投棄してかまわんよ」

 

 冊子を受け取ると男は満足そうに微笑み、襟を正し言葉を続ける。

 

「もう一つは我が輩に質問をする権利であり、その行使にはいくつかの制約がある。

 一つ、質問は一度のみである。
 一つ、我が輩の知り得ない事には答えられない。
 一つ、規制事項に抵触する問いには答えられない。
 一つ、規制事項の内容や基準については答えられない。
 一つ、答えられない場合でも質問権の行使は行ったものとする。

――以上である」

 

 なぜここにいるのか――その問いかけが、男の質問権に触れたと言う事らしい。
 確かに、知れるのであれば知りたいと思う。

 だが至誠は自問する。

 ――本当に知りたいのはその事なのか?

 

「しかし君の発言は質問権の説明より前に行われたものだ。これは無効としよう。同じ質問であれば再度口にするが良い」

 

 自問する内心が顔に出ていたのか、男は再度チャンスを与えてくれた。

 

 至誠は一度だけ大きく深呼吸する。

 

 

 ――落ち着け。

 

 

 そう自分に言い聞かせ、思慮を巡らせる。

 

 

 出会い頭の男は急いでいる様子だった。

 だが時間制限は設けていない。
 ならば時間いっぱいまで考えるべきだろう。

 次の機会が巡ってくるとは限らないからだ。

 

 まず、ここが自分の知っている世界でないことは認めざるを得ない。
 たとえファンタジー異世界が非現実的だとしてもだ。

 体感時間にしてたかが数時間。

 だがその間、五感に刻まれた非現実的は現実なのだから。

 

 至誠は考える。

 

 なぜこの世界に来たのか、あるいは居るのかが分からない。

 それが分かれば精神衛生上、とても大きいだろう。

 

 しかしその次に考えるのは、十中八九、元の世界に帰る方法だ。

 

 では「過去の原因」と「未来への光明」ならどちらを選ぶべきか。

 

 精神衛生を基準に考えるならば、後者だろう。

 

 しかし、規制事項とやらに引っかかると言われ、答えてもらえない可能性は高い。

 

 規制事項について把握出来ればそれを避ける事はできるだろう。

 だが、それも答えられないと予め含まれている。

 

 ――いや、「なぜ自分がこの世界にいるのか」あるいは「もとの世界に戻る方法について」問うのも、規制事項に抵触する可能性が十分にある。

 

 しかし、そんな事を言い出せばあらゆる質問がそうだ。

 

 

 至誠は考える。

 

 

 下手に中途半端な浅い質問をするくらいなら、いっそ核心を聞いてみる博打の方がいいかもしれない。

 

 知らぬが仏という言葉もある。
 中途半端な知識を得る状況よりも、全くの無知の方が精神衛生上よい事もある。

 

 その前提で、最高の状態を考える。

 

 ――自分の分からない事であなたが知っている事を全て教えて欲しい。

 

 そんな質問が通るのが最も理想だ。

 当然、こんなものは百パーセント通らないだろう。

 

 何か一つ願い事を叶えてくれると言われて、叶えられる願い事の数を増やす願いをするような、小学生的で無茶な発想だ。

 

 

 ――いや、まてよ……。

 

 

「これは質問権の行使ではなく、権利の範疇についての確認、あるいは独り言なのですが……」

 

 至誠は言葉を慎重に選びながら視線を男へ向ける。

 男は眉一つ動かさずただ視線を向けてくる。

 

 それを黙認と捉え、至誠は言葉を続けた。

 

「その権利は生涯に一度なのか釈然としません」

 

 質問と受け取られないような言葉を選び、至誠は視線を向ける。

 

「一度ではないとも。再会の度に、再び権利の行使が可能である。贈与する物品も別のものを準備しよう」

 

 どうやら男のいう質問権を使わずに質問する事が可能のようだ。

 だがこの手を使いすぎて相手の心証を悪くし、質問をする前に打ち切られては元も子もない。

 大事なのは引き際だ。

 

 ――ならば、上手くいった場合にこの手を使うのは次までだ。

 

「『再会』の定義について、遠巻きに見つける程度では『再会』とはならないと解釈しています。すなわちが必要だと解釈しています」

「構わないとも」

「では質問権の行使をします」

 

 構わないが肯定であると捉え、至誠は間髪入れず問いかける。

 

 

「あなたの電話番号を教えてください」

 

 

 その問いかけに、男はわずかに眉を動かす。

 

 至誠からみても、これは十中八九突っぱねられるだろうことは想像に難くない。

 『会話できる距離』が『再会』の定義として有効である場合、『通話できれば再会の定義に含まれ、すなわち再度の質問権を通話の度に得られる』などという幼稚な発想は屁理屈と呼ぶべきだ。

 

 仮にその理論が通ったところで問題は山積している。

 

 リネーシャとの会話で、確かにスマホらしきものがあると言っていた。

 だがそれが動く保証はどこにもなく、仮に問題無い状態であろうと通信電波はなく、そもそもバッテリーが充電できないのであればただの文鎮だ。

 そこをクリアしたとしても、男が電話に出ない場合や、着信拒否する可能性を考慮すると、博打も博打、大博打だ。

 

 だがこれが唯一、質問権を増やせる質問だと至誠は考える。

 

 しかし通常の博打と違うのは、掛け金がないことだ。

 失敗したときのリスクは「本来得られるはずだった情報が得られない」だけ。
 金銭はおろか、命に関わるようなリスクはない。

 そしてどんなに小さな事でも、相手の裁量次第で、いくらでも突っぱねられる状況だ。

 ならば最大のリターンを狙うのが最良だと至誠は考える。

 

 

 男は一拍おくと、愉快そうに口元をほころばせる。

 

「なるほど、機転が利くな」

 

 男はそう呟くと、愉しそうに指で顎をなぞり、しばらく考えるように間を置いた。

 

 

 

「よかろう」

 

 男は至誠の質問を認めると、内ポケットからペンを取り出す。

 高級感のある装飾が彫り込まれた万年筆だ。

 男は身をかがめ、至誠が受け取っていた冊子の端に文字を書き殴る。

 

 004-1931-4743

 

 その文字は至誠のしるアラビア数字と同じであり、まさに電話番号を示すような数列だ。

 

「君にも分かるよう、アラビア数字で書いておいた」

 

 その文字のことも当然知っている――といった面持ちで、男は万年筆を内ポケットに戻す。
 同時に空いた腕を背後にまわし、再びどこからともなく何かを取り出した。

 

「冊子の付録を忘れていたよ。これも君に進呈しよう」

 

 差し出す男の手にあったのは、スマホと同じ程度の直方体だ。

 

 受け取ってみると、思ったより重量感がある。

 材質は何かしらの金属のようだ。
 見た目の色味や触れた感覚ではアルミに感じるが、それにしては重い。

 表面にはよく分からない模様が刻まれ、側面には小さなボタンが一つ。
 その大きさはまるでスマホのようだが、分厚さはスマホの倍はある。

 そして、どこにも液晶らしきものが見当たらない。

 至誠の知識内で例えるならば、モバイルバッテリーが近い。
 しかしUSB端子は見当たらない。

 

 これが何なのか分からないでいると、すでに男は背を向けるとシルクハットを手にし、別れの挨拶を告げていた。

 

「それでは武運を祈る。よ」

 

 至誠が再度口を開く間もなく、男は目の前で霧散し空気と同化していくと、すぐにその姿が消えた。

第二八話

 だが冷静に思い返してみれば子供でも難なくできる算数だ。

「現在、王国軍側でも捜索を行ってはいる。だが正直言って期待はできない。そこで我々も騎士を編成し、独自に捜索に当たることとする。ロロベニカ」

「はい」

「第二から一名、第三から三名、第四から二名の混成の捜索班を作り、これらの指揮に当たりなさい。第二から怨人被害地区への派遣する頭数を忘れないように」

「分かりました」

 班の指揮を第二部隊の人員が担い、戦闘状態へ移行した場合に備え、戦闘に秀でた第三部隊から三名、雑務と連絡要員として第四部隊から二名割り当てる。

 汎用性を重んじた構成だとスティアは感じる。

 だが、第四部隊から二名ずつ出すことに不安を感じた。
 新人の多い第四部隊の大半はすでに疲労困憊な状態だからだ。

「ルグキス」

「何なりと」

 少し間を置き、次に司祭は、第三部隊隊長のルグキスへ声をかける。

「第三だけで構成した三から五名の護衛班を作り、巡回に当たりなさい。巡回場所は先ほどの捜索班の周辺。捜索班を援護し、信徒を守りなさい」

「了解」

 捜索班にも戦闘に秀でた第三部隊から人員を割り当てている。
 それとは別に護衛班を作る事に、疑問を感じた者もいた。

 スティアもその一人だ。

「捜索については、まずブリニーゼ歓楽街の周辺からはじめることとする」

 なぜそんな遠い所から――スティアは司祭の意図が分からなかった。

 城塞都市のベギンハイトは、他と比べて突出して兵士の数が多い。
 勤務を終えた兵士は宿舎に戻るわけだが、その付近で歓楽街が盛況となるのは自然の流れだった。

 様々な移り変わりから、現在では三つの大きな歓楽街がある。
 そして、怨人の襲撃から最も離れた位置にあるのがブリニーゼ歓楽街だ。

「その狙いを伺ってもよろしいでしょうか?」

 ルグキスは愚直に問う。
 武闘派である彼は、分からない場合には素直に聞くようにしていた。

 スティアは代わりに聞いてくれたことに内心感謝しつつ、耳を傾ける。

「まずは襲来の状況から少し整理しよう。飛行していた四名はベギンハイト上空にさしかかる直前に三つに散ったそうだ。怨人はそのうち一人を狙い急降下してきた。なぜその人物を狙ったかについてだが――スティア、怨人の標的の選び方についてわかるだろうか?」

「――は、はい! 植物、昆虫、動物、人類の順で、後者の方が優先して狙われます。同じ順位の対象が複数あった場合、怨人に近い者から、複数いた場合はもっとも早く視界に入った者から標的となります。しかしそれ以上に、魔法や鬼道が周囲で認められるとそちらを優先し、より大規模な出力を誇る術式を優先して襲撃します」

「その通り」

 ミラティク司祭の問いに答えられたことで、スティアはホッと胸をなで下ろす。

 しかし、すぐに安堵感を奥へ押し込んだ。
 こんなものは騎士に限らず、王国軍兵士でも新兵で覚えていなければならない内容だからだ。

「すなわち最終的に怨人が追った人物が、最も高出力の術式展開をしていた事となる。そしてこれから捜索するのが、その人物だ」

 つまり、捕らえた獣人以上の実力者である可能性がある。そのために過剰とも思える護衛班を展開するのか――とスティアは納得する。

「なるほど。だから第三部隊を巡回させ、捜索班にも護衛が必要という事ですか」

 ルグキスも同様に納得したように言葉を返した。

 しかし疑問が解消していない侍祭が質問を投げかける。

「ですが、なぜブリニーゼ歓楽街なのでしょうか? そもそも、それだけの実力者であると仮定するならば、すでに城壁外へ逃げている可能性が高いと考えますが」

 たしかにその通りだ――スティアは同じ疑問を浮かべている間に、ミラティク司祭は予期していた様子で質問に答える。

「怨人の襲来において懸念事項のうち、連鎖的な襲来の有無を確認することが非常に重要なのは承知の通り。無駄飯ぐらいの王国軍といえど、この時ばかりは警戒を密にしておる。そこを全く誰にも関知されず抜け出せるほどの実力があるならば、同胞であろう他三名を助ける行動を取っていてもおかしくない。それはベージェスが交わした獣人との会話内容からの推察だ」

 皆の視線がベージェスに向けられるが、説明を口にしたのはミラティク司祭が間髪入れず解説してくれる。

「要約すれば、『老女は自分に託されたのだから絶対に手放せない』『投降も出来ない』『今すぐ仲間の元へ向かう』」

 すなわち強い同族意識、あるいは仲間意識がある間柄なのだと推測される。

 もっとも、ミラティク司祭自身も言っていたように、それは憶測に過ぎない。

 しかし獣人の口にした「言葉の真偽」は別としても、「その言葉を口にしていた」と言うひとつの事実がある。

 その点は憶測ではなく証言だ。

「先にも少し触れたましたが、魔人の老婆は現時刻に至るまで一度も目を覚ましていない。どうやら酷くオドの影響を受けている様子で、これはベギンハイト襲来以前に意識を失った可能性が高い。そして人狼は、その魔人を託されていた。では飛行の中核を担っていたのは実質二人。その可能性があります」

 司祭の言わんとしている事が分かった一部の侍祭からどよめきが上がり始める。

「そして襲撃時、すでに怨人は損傷していたとのことベージェスが目撃しています。致命傷とまではいかずとも、広範囲にわたって魔法あるいは鬼道で攻撃された痕跡が見られと。王国軍側の攻撃も。そしてバラギアは、怨人よりも散った人物の一人を捕らえることを優先していた。捕らえたのは少女で、結果だけ見れば一方的に少女が負けています」

 どよめきに、スティアの声も混じる。

「もちろん、戦闘に不向きな術者であった可能性は十二分にある。しかし――」

 ミラティク司祭の考えている懸念を理解し、スティアは息をのむ。

「現在逃走中の人物が一人で、『四人を飛行』させ『強力な魔法か鬼道の攻撃を敢行』しつつ、『仕留めきれずとも、それでもベギンハイトまで逃げてきた』のだとすれば、これは英傑の域といって過言ではない」

 ――そこまでできる実力があるのであれば、下手をするとベージェス団長よりも格上の相手ではないか?

 侍祭の間でそんな懸念が表情に浮かんでいた。

「し、しかしなぜ不浄の地からなど――」

 その話題は憶測の域をでないとしながらも、ミラティク司祭は一つの仮説を伝える。

「ベギンハイト上空でばらけたのがもし、『仲間を助けるため』だとしたら。仲間を切り離し、自分が一手に怨人を引き受けるために」

「な、なぜそのような回りくどい……上空を通過することが出来たのではないでしょうか――」

 それができるならそうしたのだろう――スティアは内心でそう考える。

「マナ・エスの枯渇や高濃度のオドの影響、あるいは負傷――理由はいくらでも考えられる」

 このあたりはまつりごとを生業とする聖職者には実感のない話だ。

 しかしそのこと自体は問題ではないと司祭は言葉を続ける。

「真なる問題は、その人物が怨人を引き受けたうえで、ベージェスとバラギアが現場に駆けつけるまでに生存し、あまつさえ最終的に追跡を振り切り闇夜に身を潜めることのできた。その現実だ」

 その人物の驚異度が、累乗的に増していくような感覚をスティアは覚える。

「人狼種の話ぶりから、仲間を重んじているのはほぼ確実でしょう。ならばなぜ逃亡中の侵入者は逃げるでも助けるでもなく、身を隠したのか――」

 ――そうだ。もしもその時にまだ余力があるのであれば、真っ先に仲間のところに向かったはずだ。けど、あえて隠れたのはなぜ?

 スティアが考えていると、目の前の侍祭が声を上げる。

「つ、つまり、潜伏し回復をはかっている、と!?」

 なるほど――とスティアは腑に落ちた。
 そして同時に血の気が引いた。

 怨人の襲撃時、近くにはベージェス団長とアレバラギアがいた。
 限界かもしれないなか、英傑二人から逃げたうえに、冷静に回復をはかれるだけの頭脳、あるいは経験則を持っている――ミラティク司祭が有事において第三部隊の多くを割り振ってでも捜索を敢行する理由が分かった。

 相手の底力が計り知れないのだ。

「もしも隠れるならば、闇夜か雑踏の中が侵入者にとって都合がいい。歓楽街ならば夜通し人は多く、何らかの方法で金銭を準備できれば、食事と、場合によっては宿すら取ることができる」

 その為に襲撃地点から最も遠い大規模なブリニーゼ歓楽街が隠れ蓑として選ばれたのではないか。

 ミラティク司祭がブリニーゼ歓楽街を捜索する真意を理解し、スティアは一つの懸念を自覚する。

 ――つまりこれは、時間との勝負だ。

 逃走中の人物が回復するより先に見つけなくてはならない。

 英傑の域に達する相手と戦うとなれば、ベージェス団長が全力を出す必要があるだろう。
 だが回復される前であればその限りではない。

 だからこそブリニーゼ歓楽街に捜索を絞るという賭けに出るのだ。

「侵入者の『個』の強さが未知数である以上、こちらの戦力を分散させるのは愚策。故にロロベニカはこれまでの点に留意しつつ、まずはブリニーゼ歓楽街とその近辺の捜索を行うように」

「分かりました」

 ロロベニカ副団長に捜索の真意を告げ終えると、司祭はシルグ助祭に視線を向ける。

「そしてシルグ」

「はい」

「貴女は王国軍側との交渉を」

 こと有事においても冷静沈着なシルグ助祭の表情が、初めて崩れた。

「それは、バラギア氏が捕らえている少女の件――で、お間違えないでしょうか」

「ええ。早急にこちらへ引き渡すように、と」

 シルグ助祭の表情に、懸念という感情が浮かび上がる。

「――彼はベギンハイト家の次男であり、ロゼス王国の三英傑の一人です。こじれると色々とやっかいになりますが」

 しかしその懸念は無用だと、ミラティク司祭は余裕のある口調で答える。

「すでにガルフ・ベギンハイト氏に根回しをしています」

 そのために会議に遅れてしまったのだとする司祭に、シルグ助祭は不服そうな表情を浮かべながらも肯定する。

 その会話を耳にしたスティアは、思わず視線を会議から外すように足下へ向けてしまった。

 ベギンハイト家の継承権第一位である長男――実の兄の名が出たためだ。

「ベージェスは捕らえている二人の対応を。オドのない地下牢故、問題ないとは思うが、手遅れとなってからでは遅いからね」

 万が一にでも人狼が抵抗、ましてや脱獄した場合、対応できるのはベージェス団長ただ一人かもしれない。

 そのうえ、それだけの手練れ相手から情報を引き出さなくてはならない。
 これは相手以上の実力者が行うこと、あるいは同席している事が望ましい。

 その事は、スティアでも理解できた。

「了解いたしました」

「ただし、逃走者が第三部隊やルグキスを以てしても抑えられない場合は、迅速に現場に駆けつける必要もある。いつでも動けるように」

「心得ております」

 捜索する侵入者が人狼よりも強い可能性がある。
 すなわち、こちらもベージェス団長しか対応できないのだとすれば、教会から動けず、というわけにはいかない。

 そう理解していると、ミラティク司祭が少しばかり残念そうな顔をし、スティアの名を呼ぶ。

「スティア」

「はっ、はい!」

「第四部隊があの状態では使い物にならず、かえって足を引っ張るこことは必至でしょう」

 心臓が止まるかと思えるほど、その言葉は予期していなかった。
 司祭が第四部隊を捜索班に組み込んだと言う事は、少なくとも第四部隊の状況を知らないのだと思い込んでいたからだ。

「はっ……はい。……申し訳ございません」

「他者の上に立つのであれば、部下の管理というのも当然必要になってくる。絶対に避けられない道も、決して弱音を吐けない場面も確かにある。時には死んでこいと言わなければならないときもある。それでも、部下を酷使するしか能のない者は、最も適性がないと言わざるを得ない」

 こんな有事ですら、ミラティク司祭は部下を育てるために活用する。
 すなわち捜索班の命令を出した時に試されたのだ。

 スティアは後悔していた。

 捜索班に第四部隊も動員されると言われた場合に割ってでも入るべきだった。
 第四部隊は現在、とても任務に堪えられる状況ではない――と。

 騎士は有事こそ働くべきだ。

 だがそれは騎士としてだ。
 騎士をまとめるべき隊長として考えるべきは、今後起こるかもしれないさらなる有事に備え、少しでも部下を休ませてやることだ。

 だからこそ、隊長として具申するべきだった。

 目先の評価は下がるかもしれない。
 特に騎士の経験のない聖職者からは不評を買うかもしれない。

 それでも人の上に立つならば、隊長という役職を与えられたからには、それが出来なくては素質がないと見なされても仕方ない。

「申し訳ございません。第四部隊は現在、戦力として数えるには問題があります。動かせるとしても、第二第三部隊への転属候補生がせいぜいです」

 スティアは椅子から立ち上がり司祭に対し頭を下げると、言葉を引き継ぐようにベージェス団長が司祭に提案する。

「それでは、候補生は一時的に第一部隊の指揮下に入れましょう。その方が彼らにとっても良い刺激になるかと」

 第一部隊は有事だからこそ、教会や聖職者の護衛をしなくてはならない。
 その指揮下に入るということは、教会に残るということだ。

 つまり、何かあるまでは実質的に待機に近い。

 ミラティク司祭が頷き肯定すると、ベージェス団長は続けて副団長のロロベニカに話しかける。

「捜索班について、第二部隊から二名ずつ当てることは可能か?」

「問題ありません。ただし、第二から出せる人員はほとんどなくなりますので、細かな不測の事態に際しても第一部隊にお願いすることとなっても大丈夫でしょうか?」

「問題ない。その為の予備戦力だ」

「了解しました」

「では第四部隊の残りの人員については解散させ、十分な休息を取らせましょう」

 スティアの失態を、ベージェス団長がすぐに穴埋めをする。

 動ける第四の騎士は第一部隊の預かり。残りは解散。
 それはつまり、一時的とはいえ、スティアは隊長として指揮するべき部下が一人もいなくなったことを意味する。

「スティア、昨日の今日だ。お前も今日はしっかりと休んでおけ」

 ベージェス団長はさらに気遣いまでしてくれる。

 スティアはベギンハイト支部騎士団の中でも非常に高い実力を持っていた。
 特に鬼道の才覚は頭一つ抜きん出ており、一対一の試合で彼女に勝てる者は支部には数えるほどしかいないだろう。

 だがスティアと一般的な新人のスタート地点は明らかに違っていた。

 彼女は司祭の命で騎士団に入隊直後にベージェス団長――当時は第三部隊の隊長――の直属の部下として配属された。
 第四部隊に所属しない新人は異例で、明らかな特別扱いなのは、入団した十歳の時から理解していた。

 それは決して鬼道の才覚を見いだされたからではない。

 彼女――スティア・ベギンハイトはこの都市を治める大貴族ベギンハイト家の六女だからだ。

 スティアは幼い頃に見た、決して折れることのない屈強な騎士像と、弱きを助ける騎士道精神に憧れた。

 それが誰であったのか、現実だったのかすら覚えていない。
 それほどの幼少の頃の記憶だが、その頃から取り憑かれたように騎士になりたいと考えていた。

 しかし貴族の娘であるスティアは騎士になれない。

 女性の騎士団員も少なくない。
 実際、スティアが入団したときの団長は女性だった。
 だが王国でも名のある大貴族の名が足枷となった。

 箔を付けるために騎士団に所属する貴族の子も少なくない。
 だが女である事が足枷となった。

 名のある騎士にめとられる事はあっても、自身が騎士になる道などなかった。
 それがスティアの生まれたロゼス王国における常識的観念だったからだ。

 しかし転機は前触れなく訪れた。

 ミラティク司祭とたまたま言葉を交わす機会があり、自分が領主の娘であるが騎士になりたいのだと懇願したのだ。
 ミラティク司祭は領主――当時はスティアの祖父――と話し合いの場を持ち、そしてスティアは、騎士として出家することを認められた。

 当時十歳だったスティアは騎士になれたときは諸手を挙げて喜んだ。

 だがそれから十二年。大人になったスティアは、一族と教会との政略道具の一つでしかなかったことを理解していた。

 そして、『弱きを助ける立派な騎士』ではなく、祭祀における『お飾り』としてでしか役に立っていない現状に、心の奥底では燻っていた。

 特に隊長に任命されてからのここ一年はそうだ。

 確かに鬼道の才覚に恵まれていた。
 これによって肉体的に数段格上の相手とも渡り合えたのは事実だからだ。

 だからこそ、どこかで自惚れていた。
 自分は立派な騎士になれるのだと。

 だが第四部隊を任されるようになってからは、現実が目の前に立ちはだかった。

 スティアは年齢以上の実力がある。
 勉学においても優れた成績を収めた。
 だが勉強が出来る事は、頭脳明晰であることの証明とはなり得なかった。

 事実、このような会議においてなかなか頭が付いてこない。
 決められた評価の枠組みの中では優秀な成績を収められるが、いざ自分で考えることを迫られた場合に、どうしたらよいのか分からなくなってしまう。

 何も考えず、目の前の困っている人に手を差し伸べる。
 傍若無人な者から人々を守る。
 騎士としてそれは正しい。

 そしてスティアもまた、そうしてきた。

 だが騎士を束ねる隊長は、それだけではやっていけない。

 ベージェス団長によって隊長に指名されてまだ一年。
 正確には一一ヶ月とちょっと。

 隊長としての適性に疑義を感じ始めていたスティアは、これまで積み上げてきた自信が砂上の楼閣だと露見し、内心ではすでに崩れ始めていた。

「――いえ! 副団長の補佐にまわります!」

 だからせめて、ひとりの騎士として、体力的な理由で下がることだけは認めたくなかった。

 そこを失っては、砂上の楼閣がすべて波で持って行かれる気がしたからだ。

「……そうか。ロロベニカ、任せる」

「分かりました」

第二七話

2/10 6:12

「ベージェス団長!」

 清涼な声で女性が駆け寄り声をかける。

「スティアか」

 スティアと呼ばれた女性は青き炎の如き色をした総髪そうがみを揺らしながら追いつく。

 その見目は麗しい女性であったが、騎士団の紋章の刻まれた外套がいとうと隙間から微かに露見する鎧と武具は、まるでその肌身を隠すかのようだ。

「第四部隊の展開が遅れ、申し訳ございません」

 スティアは相手に歩調を合わせつつ、男――騎士団団長のベージェス・ムラギリウスに対し頭を下げる。

 ベージェスは鼻が低いが彫りは深く、渋さの際立つ中年の男性だ。
 種族は人ながら、騎士や王国軍兵士の平均的な人の体格よりも一回りも二回りも筋骨隆々ながたいをしている。
 巷では半分獣人なのではないかと囁かれるほどだ。

 そんなベージェスは広い肩で空気を切り、スティアが早足四歩進むところを二歩で歩いている。

「第二と第四は大祭への従事が役回りだ。その役割を全うしていた以上、俺から責めるべき言葉はない」

「はい……。しかし――」

「己の無力さを感じたのであれば、今後とも修練に励み、次への糧とすることだ」

「――はい」

 二人はラザネラ教ロゼス教会ベギンハイト支部の教会堂内を歩く。
 王都にあるロゼス教会に比べればこぢんまりとしているが、それでもベギンハイト全体を見渡せば比肩する建物は領主の屋敷より他に見当たらない立派な造りをしている。

 二人が歩く有り触れた廊下も、庶民からしてみれば目を覆いたくなるほど高尚さだ。
 威厳を思わせる彫りの刻まれた柱が並び、貫禄のある窓がその合間に垣間見える。
 天井はそばだつように高く、施された装飾に妥協は見られない。

 そんな廊下の途中に厳めしい両開きの扉が見えてくる。
 その脇には顔見知った騎士団員が二人、直立不動で守衛している。

 彼らはベージェスとスティアに気付くと、即座に騎士団内で用いられる敬礼を掲げる。

 団長は軽く、スティアは機敏に敬礼を返す。

 数間の後、最初に敬礼の姿勢を解いたのはスティアで、団長の前に出て扉を押し開く。

 直前に敬礼の姿勢を解いた団長は、扉が開くのを見届け、スティアが再び敬礼の姿勢に戻った頃合いに部屋の中に入る。
 スティアもまた団長に付くように改めて敬礼を解き部屋に入る。

 外の守衛が扉を閉じるよりも早く、すでに部屋に居た騎士団員は席を立ち上がり敬礼の姿勢を取る。

「楽に」

 そう団長が席に向かいつつ告げると、各員は敬礼を解き席に着く。

 この部屋は会議室であり、礼拝室に次ぐ大広間だ。
 基本的に関係者のみが立ち入る事のできる部屋だが、装飾の威厳さに抜かりは見当たらない。

 中央には立派な長机が置かれ、四十名ほどが座れるようになっている。

 スティアは団長が座った後、自らの所定の席に座った。

 長机には上座と下座が厳格に決められており、団長は上座の隣の席。スティアはそこから下座へ三つ隣に座る。
 上座に座るのはベギンハイト支部教会堂の最高位である司祭と決まっている。
 この部屋にある長机の場合、司祭から見て右側が騎士団、左側が役職ある信徒である聖職者たちが座る形になる。

 すでに双方合わせて三十名ほどが椅子に座っていた。

 だが司祭の姿はまだない。

 ベージェスが椅子に腰を下ろすと、目の前に座っている助祭のシルグ・ヴィレタスが最初に口を開く。

「ミラティク司祭様は準備がもう少々かかるご様子。今しばらくお待ちいただくよう」

 助祭は司祭に次ぐ地位の聖職者であり、通例どおりであれば今日も議会進行を担う。

 そのシルグは少し頬がこけた女性であり、人種にしてまだ三十七歳という若さだ。非常に若手ながらも支部協会における序列二位の聖職者の席にいるのは、ひとえに非常に優秀な頭脳の持ち主だからだ。

 出世は年齢と共に上がっていくことが多いラザネラ教会だが、優秀な人材はトントン拍子に出世の階段を上っていく。支部協会においてその最たる存在がシルグ助祭だ。

「承知しました」

 ベージェス団長が事務的に言葉を返すと、三席隣に座っている兎人の中年男性が、待っていたと言わんばかりに口を開く。

「それはそうと団長殿、下のお子様が一歳になられたとのことで、まことにおめでとうございます」

 団長が言葉を返す前に、さらに五つほど隣、兎人で老年の女性が言葉を重ねる。

「昨日はちょうど大祭と重なり、祝福の言葉が贈れずに申し訳ないですね」

 支部教会における聖職者の冠位は司祭が最高位であり一名だ。
 次位に助祭が続きこちらも一名のみ。
 しかし助祭に次ぐ侍祭は人数が増え、会議室内には十名いる。

 今声を上げた兎人の聖職者の役職も侍祭だ。

「いえ、お気になさらず。そのお気持ちだけで十分です」

 団長は感情を表に出さない語調で事務的に返す。
 端から見るとあまりに淡泊な返しだが、それが毎度繰り返されるいつもの会話であるために、多くの騎士や聖職者は聞き流していた。

「それはそうと、たったの二人しかめとらないというのも、やはりおかしな話ではございませんでしょうか?」

 ほら来た――スティアはため息をつきたくなる自分をなんとか諫める。

 ロゼス王国においては一夫一妻が基本だ。
 しかしラザネラ教においては、認可制だが一夫多妻や多夫一妻が認められている。

 たとえば騎士としてたぐいまれなる高みに到達した者、抜きん出た魔法鬼道を修めた者、教会が必要であると認めた者には許可が下りる。

「そうですとも団長殿。やはり貴殿の様な騎士として天賦の才覚をお持ちの方の血統はラザネラ教に必要でございますよ。ならば十でも二十でもめとり、多くのお子を、子々孫々を遺していただくことこそ、教会の、ひいてはラザネラ様への報徳となり得ると私どもは常々――」

 つまりは有能な人材を増やし、さらなる安寧なる繁栄を求めてのことだ。

 たとえばベージェス団長。
 孤児院出身ながら、その武人としての力量と鬼道の才覚、そして寡黙で力強い騎士道精神と信仰心がある。
 彼には一夫多妻を認める認可が下りているが、それは一部の侍祭をはじめとした他薦によるものだ。

 だが当の本人は複数の女性を侍らせたいとは思っていない様子だ。

 それでも二人の妻をめとったのは、司祭による命令に近い嘆願を受けたからだ。
 二人目の妻との間にも男子が生まれたことで、司祭はそれ以上口にすることはなかったが、今声を上げる二人の侍祭は顔を合わせる度にやれ子供を増やせだの、良縁があるだの言って団長に迫る。

 特に拍車をかける要員として彼が人であることも大きい。

 ロゼス王国に限らずラザネラ教の種族比は人と獣人が圧倒して多い。
 だが獣人と言っても様々で、離れた特徴の獣人かんでは子を授かりにくい。
 だが人は始祖種とも万能種とも呼ばれ、獣人のみならず亜人でも鬼人でも魔人でも――例外はあるが――理論上は子を授かることが出来る。

 故に一部の侍祭たちは、様々な獣人との間に子供をもうけて欲しい様子だ。

「その件に関しましては、司祭様に相談させていただいておりますので」

 この二人の侍祭の会話を終わらせるにはミラティク司祭の名前を出すのが最も有用であると知っている団長は、話を打ち切るように告げる。

「――それはそうとスティア殿、昨日の楚々そそたる姿にわたくし感服いたしまして」

 老年女性の矛先が唐突にスティアに向けられる。

「い、いえ。恐縮に御座います」

 うわ、こっちにきた――と思いつつも、スティアは丁寧に謙遜する。

 団長と違い、スティアはとその女性侍祭では侍祭の方が立場が上だ。
 苦手だと思っていてもそれを対応に露呈させることは許されないだろうと想像に難くない。

 その侍祭の言っているのは昨日に執り行われた大祭の事だ。
 ラザネラ教の半年に一度の大規模な祭祀である大祭。スティアはそこで敬虔けいけんなる信徒として与えられた役目を全うした。

 スティアは顔立ちも体つきも実に整い、まさに凜とした女性だ。
 美しさだけでなく力強さを醸し、強い信仰心を持つスティアは数年前から祭事の顔として大役を担っている。

 スティアはまだ弱冠二十二歳だ。
 信徒としては実に若い。

 スティアは知っていた。
 それが自分の騎士としての実力や信仰心が認められてのこと、ではないと。

「そうだスティア殿。いっそ団長殿と婚姻成されてはいかがか」

「――えっ!?」

 老年女性が突拍子もないことを口走ると、中年男性もそれはいい考えだと同調する。

「スティア殿は素晴らしい。信仰心だけでなく騎士としても、若くしてこれほど立派なのですから」

「そうですとも。団長殿とスティア殿のお子であれば、それはもうラザネラ様にまでお名前が届くほどの英傑になられること、お間違いないかと」

「い、いえ。私なんぞ、まだまだ未熟者でございます故――」

 スティアにとって団長とは師であり、憧れの人だ。
 その騎士としての精神も技術も、スティアの遙かに先を行く。

 ロゼス王国において最も危険と隣り合わせのベギンハイトの教会騎士団――撤怨テツエン騎士団の団長を勤める程の、彼こそが英傑だ――スティアだけでなく多くの住民がそう思っているだろう。

 そんな英傑と易々と結婚しろだの子供を作れだのは団長に対し実に無礼なことだ――とスティアは身を縮こめる。

「二人とも、それくらいに」

 助祭のシルグが諫めると、二人はおもちゃを取り上げられた子供のように悔しそうな、あるいは辛そうな表情を見せるがおとなしく従う。

 騎士団は主に四つの部隊に別けられる。

 第一部隊は団長直轄であり、主に教会の警備と聖職者の警護だ。
 強い信仰心と、信用できる推薦が求められ、騎士としての強さも必要になる狭き門だ。

 第二部隊は副団長の指揮下にある。役目は規律と秩序の監督だ。
 信徒が教えに背いていないか目を光らせ、場合によっては指導する立場にある。異端審問官の手足としての騎士だ。

 第三部隊は主に異教徒や異形から信徒を守る盾として、同時に矛としての立場にある。
 個人の異教徒であれば異端審問にかければよいだけの話だが、徒党を組んで攻められたときはそうもいかない。そのような事態に備えての騎士団だが、ここベギンハイトはでは怨人の脅威の方が大きく、対怨人部隊としての色が非常に濃い。

 第四部隊は補佐を行う。人手が足りなければ人員を貸し出し、他の部隊がわざわざ行う程でもない事柄の対応に当たる。騎士団に入ったばかりの新人はまず第四部隊に所属するため、教育部隊としての側面が非常に強い。

 そして一年前から第四部隊の隊長を勤めるスティアもまた、人の上に立つ者としての教育を受ける為、その地位に就いている事を理解していた。

 扉が開く。
 三人の侍祭を引き連れ、ミラティク司祭が入室する。
 梟人の男性であり、二〇〇歳に迫ろうかという高齢ながらも、その言動に衰えを一切感じさせない。

 聖職者、騎士団員全てが起立し敬礼を向ける。

「すまない、待たせてしまったね」

 司祭は敬礼に軽く手をあげ対応する。

 上座に司祭が座ると、各員も追従するように席に座った。

「君たちを集めたのは他でもない。先ほど発生した怨人の襲来に関してだよ。シルグ、まずは君から情報の共有を」

 ミラティク司祭が着席すると、入れ替わるようにシルグ助祭が立ち上がり言葉を引き継ぐ。

「それでは情報の整理も兼ねまして説明いたします。――本日午前三時頃、南西より怨人の襲撃が発生。第三区の西にある遊郭ゆうかく区画近辺にて多くの被害が発生しております。襲来した怨人は一体ながらも、大型でかつ飛行型のため極めて脅威度の高い個体となり、ここ数百年では最も強力な個体の可能性すらあるでしょう」

 昨日行われた大祭によってスティアは疲労していた。
 大祭の顔としてのしかかる重圧は大きく、やるべき仕事も多い。休憩もまともに取れず終日従事していては、疲労困憊にならないわけがない。

 同時に第四部隊の騎士も皆一様に疲労困憊だった。まだ基礎訓練も終えていない新人もいる。
 しかしそんな事は関係なく、雑用案件は終日途切れることなく降って湧いてくるからだ。

 それでも何とか祭事を無事に乗り越え、その日は解散し各々就寝した。

 それがおよそ午前一時半。
 その一時間半後、怨人の襲来は発生した。

「いやはや、ベージェス殿の迅速な対応には感服致しました」

 一人の侍祭が割って入ると、いえ――とだけ言葉を返し、シルグ助祭に続けるように視線を向けて促す。

「彼の仰るとおり、襲撃直後にベージェス氏とバラギア氏の両名によって迅速に怨人を処理出来た功績は非常に大きいでしょう。もし対応が遅れていれば、数千人規模、あるいはそれ以上の被害が出ていたと思われます」

 ベージェス団長とて疲れていたはずだ。
 司祭をはじめとする聖職者を終日護衛しなくてはならず、さらに騎士団全体に問題は無いかも気を配らなくてはならない。

 そんな団長は襲撃が発生した直後、迅速に現場に駆けつけ怨人の討伐を行った。

 それに比べスティアを含めた第四部隊の動きは実に緩慢であった。
 結局、準備が整ったのは全てが終わった後だった。

 部下が悪いのではない。
 隊長として未熟な自分が一番悪いのだ――その事を自覚していたスティアは、平身低頭するほど視線を落としていた。

「現時点での被害状況はどうなっているのですか?」

 別の侍祭が口を開くと、助祭は手元の資料に視線を落とすこともなく迅速に答える。

「現段階で死者数は八三名、負傷者が二四六名、行方不明が依然二〇〇名以上は想定されております。行方不明の大半が倒壊した建物の下敷きになっていると思われますが、一部は怨人に喰われたと考えられます」

「何とも嘆かわしい」

 そう嘆く侍祭を尻目に、副団長のロロベニカ・スタルーンは助祭に問いかける。

「襲撃を受けたのは遊郭区画だと聞いていますが、今あげられた死傷者数は信徒のみなのでしょうか?」

「現在王国軍側が選定作業を行っておりますが、未だ完了しておりません。死者が王国軍兵士の場合は確認が容易なのですが、遊郭での死者は信徒と奴隷の判別に時間を要すると思われます」

「確かに、あそこは少々――特殊ですからな」

「そこで第二騎士団の人員を派遣したいのですが、副団長と致しましてはいかがでしょうか?」

「相違ありません。むしろ未だに王国軍側からの協力要請が無いことが解せません」

「今なお王国軍側の指揮系統の混乱が解消していない様子です。責任の追及は後ほどにいたしましょう」

 ロロベニカ副団長が肯定すると、シルグ助祭は話を続ける。

「怨人が聖地へ侵入する基準は未だ分かっておりませんが、今回に限っては『獲物を追ってベギンハイトまで侵入した』模様です」

「そう、そこだ。その詳細について私は何も聞き及んでいない」

 一人の侍祭が声を上げると、何人かが同調し頷く。

「目撃情報によりますと、怨人が追っていた者達は計四名。非常に高速で飛行していたとのこと」

「小型の怨人ではないのかね?」

「これまで魔法や鬼道を使える個体、および人以外の要素を持つ個体は確認されておりません。対象の飛行は魔法ないし鬼道によるものだと推測され、獣人種も確認されております」

「飛行関連の術式となると、かなり複雑で不安定な術式構造になりましょう。あれは非常に実用化が難しかったはずでは」

 術式技術に詳しい侍祭の言葉ではじめて事態の深刻さを察した者もいたようだ。

「そのような高度な技術を持つ者がなぜ不浄の地から飛んでくるのか――」

 まさか――と一人の侍祭が声を上げ、視線がその人物にあつまる。

いにしえの戦争において、少数にて不浄の地を進み、多くの怨人を引き連れたまま敵地へ乗り込む焦土戦術があったと聞いた事があります」

 いくつもの驚きの声が上がり、議論の熱が上がり始めるのをスティアは肌で感じた。

「つまり、これは他国による攻撃だと!?」

「しかし実際にそのような事が可能なのでしょうか?」

「少なくとも今の我々には難しいでしょうな……」

 混迷しはじめる場をいさめるように、シルグ助祭は声を上げる。

「先に報告を進めさせていただきます。四人の侵入者のうち一人は獣人種――正確には人狼種であり、捕縛までの間に会話も出来ていたことを鑑みますと、怨人の可能性は極めて低いと思われます」

「なるほど。確かに獣の怨人というのは一度も観測されていないですからな」

「はい。そしてその人狼種および、もう一人はベージェス氏によって捕らえ、現在地下牢にて拘束しております」

 おおっ――と感嘆が上がる中、下座の侍祭から質問がシルグに投げかけられる。

「その『もう一人』の種族は判明しているのでしょうか?」

「魔人種である事までしか分かっておりません。ここから先は完全な憶測になるのですが、その魔人は人と相違がない老婆でしたので、純魔人――あるいは魔女である可能性が考えられるのではないかと」

「魔女……マシリティ帝国か!」

「――確かに、かの異教徒どもであれば高度な魔法技術を持っていてもおかしくはない。不快である事この上ないがな」

「すなわち、こたびの一件は威力偵察ということか!?」

「あそこの邪神への執念さは侮れないからな――」

「確かに。喜んで死ぬ奴はごまんといるだろうな」

「ではまずいですぞ! ロゼス王国においてベージェス氏とバラギア氏は、この国の三大英傑のうち二人!」

「確かにその通りだ! こちらの手の内を探るためだとしたら、実に事態は逼迫しているのではないか?」
「あと一時間としないうちに門が開きます! そこから間者を逃すようなことになれば実にまずい!」

「開門時間を変更するよう要請を出しましょう! 都市から外へ出る者へは厳しく身元の確認を行うべきです!」

「し、しかし、相手は我々よりも高度な魔法技術を持っているのですぞ! そもそも城壁を乗り越えたり、空から観察されているような場合は対応出来ません!」

「やはりかの国に対しては国交断絶では生ぬるいのです! かの国と国交のある国に対してはもっと圧力と規制をかけていくべきではないのでしょうか!?」

 白熱する議論が聖職者の間で行われる。

 このような議論に騎士団は基本的に口を出さない。
 そもそもまつりごとは門外漢だ。せめて軍略を練る場合であれば出番もあるだろう。

 故にスティアもその推移を見守っていた。
 しかし、さすがに理論が飛躍しすぎてきているのをスティアは感じていた。
 だが聖職者の方々の議論に自分が水を差して良いものかと懸念が口を固く閉じさせる。

 そんな議論を止めたのはミラティク司祭だ。

 そのか細い手で机の上の何度か叩く。扉をノックするときのように。
 それが手を止めて自分に注目するように示した合図であることは、この場にいる全員が知っていた。

「ベギンハイトにおける内政ならまだしも、外交――それも、今や三大列強国の一つと言われるようになったマシリティ帝国への対応など、この場で決められることではない。この件は、間もなく行われる司祭協議会および、司教評議会にてかけ合うことを約束しよう」

 場の空気が一気に沈静化し、皆一様に冷静さを取り戻す。

「こたび、君たちに集まって貰ったのは今後どうするかを議論する為ではない。今どうするべきなのかについてだ。もしも威力偵察であったとするならば、情報の流出を防ぐのは喫緊の課題だ。だがそれは憶測に憶測を重ねたに過ぎない。根底を見誤れば事態はより悪い結末を迎えるだろう」

 ゆっくりと落ち着いた口調で話を区切ると、シルグ助祭の方へ視線を向け呼びかける。

「――シルグ、マシリティ帝国はかつて他国に在住していた魔女を粛清していった歴史があるね」

「はい。マシリティ帝国黎明期、様々な国や地方に住んでいた魔女を引き抜き、同調しない者を粛清したとされています。しかしながら傘下に入った者、粛清された者全てが同様に失踪や行方不明とされ、殺害痕跡が発見されたのはごく少数の事例だと聞き及んでおります。そのうえ、直接的にかの国と繋がるような物証は見つかっていないとも」

 ロゼス王国は国教としてラザネラ教を信仰している。
 それはロゼス王国特有のものではなく、隣国をはじめ、ラザネラ帝国の庇護下にある国にとって一般的な形態だ。

 そのため隣国も全てラザネラ教の国であり、軍事的な戦争となったことは千年以上ない。それは相互助力を基本理念としている教会の存在が大きい。

 親密な連携を取り合う隣国とは違い、庇護下にない他国について知識深い者は少ない。
 特にここベギンハイトでは、怨人という目先の脅威がある。
 外交に強い者は、こんな辺境の支部教会にはいないのが現状だ。

 だがその国は違う。
 奴らは邪神を信仰し、今や三大列強国の一つにまで名を上げた。

 そんなマシリティ帝国を知らない聖職者はいない。

「それが数百年前――もう千年近く前になる。そして現代において魔女と言えばマシリティ帝国と言われるまでになった。しかし粛清を逃れ、マシリティ帝国以外で生きている魔女もいる。この理由について、スティアは知っているかね?」

 スティアは司祭の言葉を聞いていた。むしろ聞き入っていたと言ってもいい。
 しかし自分に質問を振られるとは想定していなかったために、とっさに答えが出せなかった。

「――も、申し訳ございません。存じ上げておりません」

「ではロロベニカはどうだ」

 そのことについて咎められる言葉はなく、司祭はロロベニカ副団長へ問いかける。

「マシリティ帝国が手出しできない国にいた場合は、その『対象外』となったものであると理解しております」

「より正確には、『対象外』ではなく『断念した』と評するべきであろう。ではその手出しできない国とはどこがあるか、今度はわかるかね? ――スティア」

「し、神聖ラザネラ帝国――でしょうか」

「半分正解だ。そして、我らが神聖ラザネラ帝国に比肩する超大国――レスティア皇国も含まれる」

 そのような簡単な問いかけにすら満足に正答できず、スティアの視線はさらに低く落ちる。そんなスティアの心境を誰も気に留める暇はなく、別の侍祭が手を挙げたことで視線が全てそちらに向く。

「団長殿に質問をよろしいでしょうか!?」

 司祭が肯定すると、侍祭は言葉を続けた。

「捕らえた二名が神聖ラザネラ帝国の方々であられるような印象はありましたでしょうか?」

 その質問の意味を多くの者が理解した。

 もしもこれがマシリティ帝国による威力偵察ではなく、神聖ラザネラ帝国の方々――天上人の何らかの事情や事故によるものであった場合、絶対に無礼があってはならないことだからだ。

「そのような言動は見受けられませんでした。加えて、獣人の身につけていた武具には紋章が入っており、神聖ラザネラ帝国の紋章とは明らかに違う形式であることは確認済みです」

 ベージェス団長はその先を確認するようにミラティク司祭へ視線を向けると、ミラティク司祭が言葉を引き継ぐ。

「私もあのような紋章を見るのは初めてだった。少なくともラザネラ教圏の国々の紋章ではなく、確認されているマシリティ帝国のそれとも違った。それは支部教会および王国軍側の紋章官も同様であると確認した。しかしここでは、ラザネラ教圏以外の紋章は非常に少なく、照合するのであれば少なくとも王都の紋章官まで問い合わせなければなるまい」

 だがそのような時間がないことは、言葉にせずとも誰しもが理解できた。

「未知の紋章となるとやはり、マシリティ帝国およびその属国が怪しいのではないでしょうか」

 端にいる侍祭の言葉に、「もちろんその可能性も十分ありえるだろう」と答えながらも、ミラティク司祭はゆっくりと首を横に振り否定する。

「しかし、そうだと断ずる証拠はない。肝に銘じて欲しいのは、根拠のないまま『そうに違いない』と思い込むことが、視野を狭くし足下をすくわれる要因となり得るということだ」

 誰しもがその言葉に納得し、手を上げた別の侍祭によって会話は進行する。

「ベージェス団長にお伺いしたいのですが、捕らえた二名とは対峙――剣を交えたのでしょうか?」

「魔人とおぼしき老女はすでに意識を失っている様子でしたが、獣人の方とは戦闘になり、生け捕りにする事が困難な相手でした。そのため、卒倒させる他なかった事は、私の未熟さ故の失態です」

 ベージェス団長はそう謝罪するような口調で告げる。

 そのようなことは――とたじろぐ侍祭を尻目に、団長の真意をスティアは理解する。

 相手を気絶させて捕らえた。
 すなわち意識が未だ無いのだろう。

 もしも意識があれば情報を引き出すことも可能なはずだ。

 無理矢理起こすことも可能かもしれないが、戦闘による負傷がどの程度なのかスティアは分からない。
 
だがそれをしていないと言うことは、それができない状況なのだと想像に難くない。

 ベージェス団長は、人狼の強さについて言及する。

「まだ粗い部分はありましたが、かなりの手練れで、純粋な強さで言えば、ルグキスと同等以上かと」

 ベージェス団長は横へ視線を流しながらそう告げた。

 その視線の先には、第三部隊の隊長を務めるルグキス・ギロベルトがいる。
 ルグキスはベギンハイト支部教会の中では、ベージェス団長に次ぐ強さを持つ。

 そのルグキスをも凌ぐ可能性のあることは、聖職者たちの間に衝撃が走る。

「もっとも、相手の力量は憶測になります。なにせ獣人は同胞を抱え、かつ疲弊した様子でありました。加えてこちらとしても、住人や街を守りながら立ち回らなくてはなりませんので」

 それでも戦闘特化の騎士が所属する第三部隊、その隊長をも凌ぐかもしれない獣人の存在は、聖職者たちにとっては大きな問題だ。

 もしも今この瞬間に捕らえた人狼が逃げ出し、この会議室まで侵入したならば、団長以外に止められないかもしれないということだ。

 それが会議後、運悪く団長が不在となった時と重なれば、下手をすると支部協会は内部から陥落する危険性すら孕んでいる。

「正当性はともかく、紋章入りの武具を所持し、それほどの使い手……。同胞が魔女ともなれば、やはりマシリティ帝国で間違いないのでは――」

 ある侍祭の言葉を止めるように、ミラティク司祭は再び机を鳴らす。

「その可能性は否定はできない。しかし、『魔人の女性が魔女である』、『魔女はマシリティ帝国の者である』との憶測と推測の上に成り立つ議論に過ぎない。そこが崩れれば、根底から崩れてしまう」

 でもそれだと何を議論するべきなのか分からない――そうスティアは内心考えていた。

「君たちの中には、これでは議論がそもそも成り立たないのだと考えた者もいるであろう」

 ミラティク司祭の言葉は、そんなスティアの心が読まれた気がしてわずかな動揺が表面に露見する。

「その意見は正しい」

 だがそれを正しいと言われ、スティアは頭に疑問符しか浮かばなかった。

「一番の問題は、議論を行う為の根底的な情報がほとんどないことにある。それを君たちには十分に認識してもらいたい。故に今行うべきは、事態の把握と情報の収集。その重要性を理解し動いたのは、シルグ、ベージェス、ロロベニカの三名だけだ」

 その言葉に驚嘆の声を上げたのはロロベニカ副団長だ。

「ご存じでしたか――この有事に独断で部隊を動かしたこと、謝罪しなければと思っておりました」

「ロロベニカは自分の権限と責任の下で、任されている第二部隊を動かしたに過ぎない。裁量権を越えておらず、むしろ迅速な行動を褒めるべきだと私は思っているよ」

「勿体ない御言葉です」

「より理想を求めるならば、この場において暫定的にでも情報をまとめて報告できる状態に持っていっておれば最良であったであろう」

「――至らぬ点、今後に生かして参ります」

 ロロベニカ副団長はそう陳謝するが、それ以上にスティアは頭を下げたい気持ちで押し潰されそうだった。

 自分の任されている第四部隊は、確かに初動が遅れた。
 動ける態勢を整えられたのは、全てが終わった頃だ。

 しかしそこからこの会議までの数時間、スティアは何もしなかった。
 そこまで考え至らなかった。
 隊長としての地位と裁量を与えられていたにもかかわらず、だ。

「だが各々がバラバラと行動していたのでは無駄と損失が大きくなる。そこでこの場で全体としての方針を伝える」

 その為に招集をかけたのかとスティアは理解する。

 スティアの考える、ミラティク司祭の凄いところはこれだ。

 普段は穏和で優しいおじいちゃんと言った面持ちなのに、こと有事の際には誰よりも冷静に的確に指示を出せる。
 求心力と説得力、すなわちカリスマ性がある。

 そしてそれが自分に足りない最たるものだと、スティアには自覚があった。
 ――自分にあるのはそぐわない血筋と、わずかばかりの鬼道の才覚だけだ。

「すでに君たちは把握、あるいは疑問に思っていることだろうが、我々が捕らえているのが二人。王国軍側が一人。しかし、侵入者は四人」

 司祭の解説で、スティアははじめてハッとした。

 ――まだ一人見つかっていない!?

第二六話

 2/10 9:45

 

 玉虫色をした髪をした少女は目を覚ますとゆっくりと顔を上げる。
 混濁した意識、焦点の定まらない視界、反響する聴覚――それらを振り払うかのように頭を横に振る。

 

 リッチェ・リドレナの意識は覚醒する。

 

 脳裏には混乱と疑問符がよぎるが、同時に体が動かない事に気付いた。

 

 体は意志を受け付ける。だがその上で動けないよう椅子に固定されていた。

 

 腕は肘掛けに、足は椅子の脚に。

 大腿部と腹部もしっかりと固定され、微塵も動かす余地がない。
 とかれた髪はただひたすら重力に従い垂れ下がり、口には口枷がすげつけられ唾液がよだれとなってこぼれている。

 なぜか何も着衣しておらず、肌寒い空気がやんわりと皮膚をなぞる。

 首にも拘束具が付いているが頭は固定されておらず、かろうじて周囲を見渡すことができた。

 

 薄明るく狭い部屋にいる。

 

 部屋の隅に掲げられた蝋燭台から漏れる光が唯一の光源だ。

 壁には継ぎ目も模様もない簡素なものだ。
 蝋燭の灯火と同じ暖色をしているが、それが光に当てられての色だとすれば元は白い壁なのだろうと憶測できる。

 前方には小窓の付いた重厚な扉――おそらく金属製――があり、他に扉や窓は見当たらない。

 リッチェの目算では、一片が四ルク三.一三メートル程で構成される正方形の部屋だ。

 

 そこまで認識したところで、ある違和感に気がついた。

 ――空気中にオドが全く存在していない。

 オドは透明で無味無臭だ。
 しかし魔法や鬼道への精通がある程度の領域に達すると、漠然とした感覚でオドを感じ取ることができるようになる。

 その境界線は今なお未解明だが、少なくともリッチェは数年前にその領域まで達していた。
 さらなる高み――陛下や師匠であれば、そのオドに直接干渉する事もできる。

 

 だが問題は、オドが存在しないことそのものではない。

 

 何せ本来オドは有害物質だ。
 オドがない空間でも生命活動に影響はなく、むしろ体内で無害化しなくていいのだから健康的とすら言える。

 しかし魔法に必須であるマナは、オドを分解して生成される副産物だ。
 故にオドが存在しない空間というのは、必然的にマナを生成出来ない空間といえる。

 そして、リッチェの体内に残留しているマナは、ほぼない。

 

「いったい……なにがどうなって――」

 

 リッチェは何が起こったのか思い出そうとする。

 

 不浄の地から逃げていた。
 神託の地が見えて、脱出が目の前まできていた。

 だが即興の術式の不安定さと怨人の襲来が相まって、どこかの都市上空でちりぢりになって投げ出されてしまった。

 あのとき、すぐに至誠を助けようとした。

 しかし怨人の放つ衝撃波に吹き飛ばされ引き離され、一度目は失敗に終わった。
 地面が差し迫る中、再び救援に向かおうと体勢を立て直した。

 その直後、地上から何者かが急接近してきたところまでは覚えている。

 

 ――失敗した? 助けられなかった? 今の状況は?

 

 リッチェの脳裏に気がかりが反響し始めたのと同時、足音が聞こえてくる。
 それも一人二人ではない。

 

「おっ、さすが閣下! ぴったりですよ」

 

 複数の足音をかき消すのは、若く活気のある男性の声だ。

 男は部屋の外にいるようで、その姿はどこにも視認出来ない。

 

「状況は?」

 

 問い返すのは、重低で渋い男性の声だ。

 

「およそ二分前に目を覚ましてます。まだ何も」

 

 目を覚ましているというのが自分の事を指しているのだと、リッチェの直感は語っていた。

 すぐに扉にすげつけられた小窓がスライドし開く。

 

「目が覚めたようだな」

 

 その男に心当たりはない。小窓からみえる目は鋭く細い。人ならば三十歳前後といった面持ちに見えるが、目元だけではその判断は難しい。

 

「何者だ?」

 

 男は間髪を入れず問いかけてくる。

 だが口に枷を咥えさせられていては何も言えない――そう思って居ると、男は指を鳴らす。同時に口枷の拘束だけが緩み、すぐに口から外れ足下に落ちていった。

 

「私は――」

「怨人か?」

 

 リッチェの声を遮り、男は質問を変更する。

 不快に感じるが、これは示威行為だとリッチェは察する。

 こちらからは一方的に攻撃が出来る状態である。そして会話においても圧倒的な優位性がある――そう言わないが為の演出だ。

 

 リッチェは相手のペースに飲まれては駄目だと自分に言い聞かせ、落ち着いた口調で端的に答える。

 

「違う」

 

 小窓からのぞく目がいっそう細く見据える。

 

「ならば証拠を示せ」

 

 自分が化け物でない証明をしろ――そう男は要求する。

 

「怨人であれば、このように会話はできない」

「言葉を発する怨人も居る」

 

 リッチェは不浄の地に足を踏み入れたのも、怨人を直接見たのもはじめてだ。
 だが知識として、怨人と意思疎通が取れた事例がない事を知っていた。

 そして実際に不浄の地では、確かに怨人は音を発するが、それは声と呼べる代物ではなかった。

 

「雄叫びや悲鳴が『言葉』に含まれるなら、確かにそう」

「怨人とは人智の及ばぬ存在だ。会話を会得したのやも知れない」

「そうであれば、その存在理由をぜひ聞いてみたい」

 

 小窓から見える男の視線が一瞬外れる。

 

「全くだな。では怨人ではないとして――」

 

 ひとまず自分が怨人でないという前提で話が進む様子にわずかに安堵を感じる。

 根拠や証拠に関わらず怨人だと判断された場合、それらしい理由を付けて殺されかねないからだ。

 ともあれ、怨人でないと信じてくれるならそれに越したことはない。

 

 だがリッチェには状況が分からない。

 しかし向こうもわざわざ問いかけてくるということは、向こうも分かっていないのだろう――そう考え、リッチェは無駄な対立を避けて情報収集に注力するべきだと考える。

 

「ならば貴様は何者だ?」

「私は――」

「種族からだ」

 

 男の言葉は再度リッチェを遮る。
 それは主導権はこちらにあるのだと見せつけるに留まらず、苛立たせて思考力の低下の誘発と情報の露呈を目的とした駆け引きなのだと理解する。

「魔女」

 

 故に淡泊に単純に答えだけを返す。
 苛立つ様な言動を見せれば、それは相手の思う壺だろうと考えてのことだ。

 

「ほぅ、魔女。マシリティ帝国の魔女か?」

「違――」

「マシリティ帝国の傘下に獣人の国家があるな。レギリシス族長国、だったか? 君のお友達はそこの者か?」

 

 ヴァルルーツ王子のことを言っているのだろう。だが、北部の国家であれば人狼がレギリシス族長国連邦の脅威をものともせず独立国家を維持している事を知っているはずだ。ならば男は、男のいるこの場所は北方ではない。

 その憶測を頭の片隅に置きつつ、端的に返答する。

 

「違う」

 

 眉一つ動かさず答える態度に、不快感からか、あるいはより詳細に観察するためか男は目を細めリッチェを凝視する。

 

の種族は?」

 

 残り一人――それがリッチェの耳に強く残る。

 

 名前の挙がっていないのはテサロ師匠とミグと至誠の三人いる。

 ――師匠はヴァルルーツ王子に抱えられていた。だから気付かなかった?

 おそらく至誠のことを言っているのだろう。
 ミグは彼の体内にいたはずなので、一瞥しただけでは気付かれないだろう。

 

 問題は至誠についての情報を開示についてだ。

 

 自分が勝手に判断できることじゃない――今回のアーティファクト加々良至誠の調査に本来ならば自分の同行は予定されていなかった。

 何せ身分で言えばまだ学生だ。
 成績において主席とはいえ、未知の脅威をもつ可能性があるアーティファクトの調査に同行するなど場違いにも程がある。

 それでもリッチェが今回の調査に同行できたのは、志願による強い意思表明と、テサロ・リドレナの娘であるとという血筋、そしてミグが推薦してくれたからだ。

 

 もしここで自分から下手なことを喋り、それが皇国や陛下にとって悪い結果をもたらすことになれば、すなわち師であり親であるテサロと推薦してくれたミグの顔に泥を塗ることになる。

 

 故にリッチェは「残り一人」が至誠でないことに賭ける。

 

「魔女」

「ほぅ、君と同じ、魔女かね」

「そう――」

「魔女が二人もいるなど、物騒な話だ。やはりマシリティ帝国の手の者と考えるべきだな」

「違う」

「ではなぜ魔女と嘘をついた?」

 

 どっちだろう――魔女だと信じられない言葉か、はたまた至誠がいる事を知っていてかけられた言葉かの判別が難しい。

 

「魔女だけどマシリティ帝国の関係者ではない」

 

 だが下手に主張をブレるとそこを追求されかねない。
 ならばここは、至誠は存在していないという言動の方で統一した方がいいだろうと判断する。

 

「魔女はマシリティ帝国以外に存在しない。かつてあの国は自分たち以外全ての魔女を粛清してまわった歴史を知らないのかね?」

 

 魔女によって建国されたマシリティ帝国には世界の大多数の魔女が属している。

 それまで他国にいた魔女は引き抜き、同調しないものは粛清した。
 そうリッチェも聞いている。
 そのため世界にマシリティ帝国に属していない魔女は数える程しかいない。

 男の主張も理解できる。

 

 そしてこのままでは、マシリティ帝国の間者として話が進むおそれがある。
 それはそれで、怨人と間違われるのとは違った面倒ごとになるだろう。

 男の立ち位置が不明瞭だが、マシリティ帝国と対立している国は多い。

 

 故にリッチェは情報のカードを一つ切る。

 

「私たちは、レスティア皇国から来た」

「なるほど。確かにあそこならかくまえるな。では目的はなんだ?」

「皇国に戻る途中」

「戻る――来たのではないのかね?」

 

 先ほどは来たと言い、今は戻ると言った。
 男からしてみれば怪しく感じるだろう。

 

「戻る途中で事故が起きた。ここがどこか知らないが、用はない」

「ではなぜこんな辺境の地を通ったのか説明して貰おうか」

 

 問いかけられている事に対し、より詳細に答えるために質問で返す。

 

「まず、ここはどこ?」

 

 数間を置き、男は答える。

 

「ベギンハイトだ」

 

 だがリッチェの記憶に心当たりはなかった。

 

「国名?」

「ロゼス王国と言えば分かるだろう?」

 

 ロゼス王国のベギンハイトという街、あるいは土地なのだろうと理解するが、いずれも心当たりがなかった。

 

「……どこにある国?」

「ものを知らない女だ」

 

 男はあきらかに不快そうに言葉を漏らす。
 だが、ため息一つこぼすとその雰囲気は消え、改めて問いかけてくる。

 

「何故ここに?」

「レスティア皇国に戻る――」

 

「何故、ここに?」

 

 リッチェの答えが男の望む答えでなかったのだろう。
 より強くなった口調で遮り繰り返される。

 

「……不測の事態に巻き込まれた」

「不測の事態、とは?」

 

 どこまで情報を渡すべきか悩ましいが、それでもここでいっさいの回答を拒絶すると、こちらも情報が入ってこない。

 

「アーティファクトの影響、だと思う」

「なるほど――だが、ここではレリックと呼びたまえ」

「……分かった」

 

 アーティファクトとは、レスティア皇国がそう呼んでいるだけに過ぎない。
 その研究と対策においてレスティア皇国がもっとも精通しているからこそ国際的に浸透してはいるが、統一されているわけではない。

 ゆえに、アーティファクトと呼ばない国もある。
 たとえば「レリック」という名称だ。
 これが主にラザネラ帝国が用いる名称のことだと、リッチェは知っていた。

 

 すなわちここがラザネラ帝国の影響下にある国だと推測できる。
 そしてラザネラ教圏は、特に南方で強い勢力を持っている。

 そして自分たちが不浄の地を北上していた事を思い出す。

 すなわち、不浄の地に面した南方のどこかの国だ。その事を理解していると、
 ――それで?
 と男は続きを催促する。

 

「この近くの不浄の地に転移してしまった。だからここまで逃げてきた」

「……なるほど」

「あなた方に対して敵対行動を取るつもりはない」

「ほぅ」

 

 男の目元に愉悦が浮かんだ気がした。

 

「迷惑をかけないよう早急に出て行く」

「君一人だけ帰ろうというのかね?」

「全員で返して欲しい」

「全員、とは?」

 

 リッチェはあえて人数を避けた返答をするが、男は追及してきた。

 

「私とししょ――もう一人の魔女と、人狼の三人」

 

 師匠と言いかけた。
 それはわざとだ。男の注意が自分と老婆の関係性に気を逸らすために。

 

「四人ではないのかね?」

 

 だが男はねっとりとした目笑を浮かべながら告げる。

 しまった……やっぱり把握されていた――そんな心の声がリッチェの表情にわずかに浮かんでいるのを男は見逃さなかった。

 

「いいだろう。が帰国できるように手を回してやろう」

 

 男の目元は嬉々としている。
 ここまでのやりとりは全て手のひらの上だと言わんばかりの雰囲気だ。

 

「人狼と老いた魔女と、お前の三人でいいのだろう?」

 

 意図して隠そうとしていたということは、何かしらの重要な人物であると男が考えるのも無理はない。

 隠そうとしたことが裏目に出たとリッチェは後悔するが、今できる最大の主張を口にする。

 

「全員で、返して欲しい」

「三人と言っていたではないか」

 

 声に笑いが漏れるほど愉快そうに指摘する。

 

 男の視線は鋭くリッチェを見据えている。

 だがここにきて、それが警戒心ではないように感じた。

 

 どう返答すべきか窮していると、男の方から「だが――」と落ち着き払った口調で提案してくる。

 

「こういうのはどうだ。帰れるのは人狼と老いた魔女、そして隠しておきたい人物の三人だ」

 

 男の視線は舌なめずりするようだ。

 

「お前のような上玉はなかなか手に入らないからな」

 

 リッチェの表情に目に見えて動揺が浮かんだ。
 男は至誠の叡智ではなく、リッチェの体が目的だと理解したためだ。

 最初からそれが目的なのかもしれない。

 ――いや、すでに何かされた可能性が……。

 

「安心しろ。何もしていない」

 

 まだ――と強調し男は続ける。

 

「あいにくと肉塊を抱く趣味はない。女と肉塊の違いは何か分かるかね? いい声で鳴くかどうかだ。君はきっといい音色で鳴いてくれる」

 

 リッチェは相手の目をにらみ貫く。
 だが男にとってそれは威圧とはならず、むしろ歪曲した欲望と嗜虐心を後押しする結果となった。

 

「もう、閣下ははいつも一人で楽しみ過ぎですよ。たまには壊す前にこっちにも回してくださいよ~」

 

 若い男の声が割って入ってくる。男の視線がリッチェからそれ、声の主の方へ向いた。

 

「こいつはダメだ。手を出したら殺すぞ」

「うっへー、閣下まじこわ」

「代わりに今回の討伐賞与でお前達に好きな奴隷を買ってやろう。それで存分に楽しむといい」

 

 男の声に、若い男以外にも複数の男の声が聞こえてくる。

 

「さすが閣下は話が分かる!」

「三英傑の中でも一番懐が広いのが閣下ッス!」

「よっしゃ、一番いい女抑えときますわ!」

 

 扉の向こうで和気藹々わきあいあいとした口調がリッチェの耳にまで入ってくる。だがそれが狂気じみていると感じざるを得なかった。

 さて話を戻そうか――と、男は再度リッチェに語りかける。

 

「選ぶがいい。仲間のためにお前一人の犠牲で済ませるのか。何なら全員処刑してお前を飼ってもいい。だが俺は紳士だ。自ら這い寄り足を舐める愛玩動物は相応に可愛がってやろう」

 

 男の目は本気だ。欲情した獣の目だ。少なくともリッチェにはそう見えた。

 ――どうする?

 リッチェは考える。

 

 自分が犠牲になり皆が助かる――やぶさかではない。
 そう思えるのはテサロに似たからだろう。

 しかしそんなリッチェの脳裏に過ぎるのは、不浄の地で至誠とヴァルルーツがテサロの自己犠牲を阻止した記憶だ。

 

 そもそもひざまずいて乞うたところで、この男がまともに約束を履行するとは思えない。自分への脅し道具として確保しつつ、必要になくなれば殺してしまうだろう。

 

 だがここで明確に拒否した場合、他の人に矛先が向く可能性が高い。

 

「――バラギア准将閣下! こちらにおいででしたか!」

 

 返答に窮していると、扉の向こうから慌ただしい足音共に声が響く。

 

「報告致します! 今し方、教会から――」

「待て」

 

 バラギアと呼ばれた男は報告を遮ると、リッチェに宣告する。

 

「戻ってくるまでに返答を用意しておけ」

 

 バラギアは愉悦に浸る様な笑みを浮かべながら小窓を閉めた。

 

「報告は向こうで聞く」

「ハッ! 失礼いたしました!」

「シグナスガとミルクイナは残れ。他はついてこい」

 

 了解――と声が聞こえてきたかと思うと、複数人の足音が遠ざかっていく。

第二五話

 リッチェはすぐにその飛行の欠点に気がついた。
 ――扱いが難しい。
 正確には、回避行動が鈍くなってしまう。

 これまでは低速だった故に機敏な回避が出来ていた。
 しかしこれだけの推進力を得たのに対し、操舵に関しては低速の時のままだ。

 リッチェは再度襲来する怨人に対し早めに回避行動にでる。
 だが実際はそれでもギリギリだった。

 速度は上がった。でも避けられなくなりました――では意味がない。

 

 リッチェは怨人の襲来の隙を見て操舵に関する術式を強化する。

 

 

 その間にも速度が上がっていく。

 

 
 時速五〇〇ギルク三九二キロメートル

 

 時速八〇〇ギルク一〇二〇キロメートル

 

 そして、間もなく時速九五〇ギルク一二一〇キロメートルに達しようとしている。

 

 テサロの残してくれた魔法によって、生身のままでのその風圧等を受ける事はない。

 だが、リッチェは確かに軋むような感覚を覚えた。

 ――マズイ、もし風圧に対応する魔法防壁が崩れたら、それだけで命に関わる。

 そう理解していたリッチェは、全員の防衛網を強化する。

 

 だがそのわずかな思考が隙となった。

 

 後方より超高速の怨人が今にも追いつかんと迫っていた。

 股ぐらを開き、足先に付いた口が左右から襲い掛かる。

 それを下降し間一髪で避けたリッチェだったが、示し合わせたかのように小型の怨人が跳躍し襲来する。

 

 ――しまった!

 

 リッチェの脳裏にそんな叫びが過ぎると同時に、小型の怨人を魔法攻撃が襲った。

 

 その魔法攻撃は雷撃だったが、触れた直後に爆裂を引き起こし、跳躍を跳ね返すように吹き飛ばし肉が四散する。

 

 放ったのはヴァルルーツだ。

 

 先ほどミグが生成した魔法術式を用いた攻撃だが、規模が違った。
 爆裂そのものは変わらないが、連鎖的に炸裂しないようになっている。

 それはヴァルルーツなりに役に立とうとした証しだ。
 至誠の語る理論はヴァルルーツには皆目理解出来なかった。
 だがさらなる加速を得ようとしていたのは理解出来ていた。だがその場合に問題となるのは、超高速の怨人以外の個体だ。

 もともとリッチェが速度を上げないのも、怨人による正面衝突を避けるためだ。

 リッチェもミグも、加速で手一杯のはずだ。
 ならば、不測の事態には自分が対応するしかない。

 その理解は、先ほどミグが構築した魔法から連鎖を取り除き単体での運用に改良した事に繋がった。
 従来のままでは自分たちもその攻撃範囲内に入る可能性が高かったからだ。

 

 そしてその考えは、ここぞという場面で発揮された。

 

 もしヴァルルーツがいなければ、あらかじめ準備をしていなければ、小型の怨人に少なくとも一人は喰われていた。

 

「小さいのはこちらで処理します!」

 

 ヴァルルーツの宣言は、全員の士気を後押しする。

 誰一人として欠けていれば、状況は一変したはずだ。
 全員が自らの持ち味を生かせたからこそここまで来られたのだ、という強い結束感が生まれていた。

 眼下の土地は凹凸はあるものの、なだらかだ。靄もかき消え、視界は良好だ。

 ――間違いない!!!

 ヴァルルーツは心内で叫んだ。
 隆起した丘の奥から現れたのは、神託の地にある街なのだから。 

 

 ――あそこに着きさえすれば!

 リッチェはありったけのマナは内燃機構たる炎魔法に注がれる。
 空気の温度がさらに上昇することで、飛行速度もまた上昇する。

 この加速装置は非常に燃費が悪かった。
 なにせ継ぎ接ぎの術式で最適化されていない。
 そのため尋常ではないマナを吸われていく。
 
 それでも不浄の地を踏破する量はある。

 リッチェは膨大なマナを内包できる体に生んでくれたテサロに感謝しつつ、同時に必ず連れて帰るという気概をさらに強める。

 

 ――マッハ一よりもちょっと速い程度か。

 至誠は後方から猛追してくる超高速の怨人を見据え考える。

 こちらはソニックブームが起きていない。
 すなわち音速越えは達成されていないと言う事だ。

 先ほどの回避で一度あの怨人は旋回し、再度後方へ付けた。
 しかしその距離はなかなか縮まらない。

 それでも再三音速を超える際に発生する雲が見て取れるので、音速は超えている様子だ。
 すなわち「奴はギリギリ超えている」「こちらはギリギリ超えていない」と考えられた。

 目の前の街並みが急速に接近してくる。
 この分では次の襲来よりも街へ到着する方が速いだろう。

 

 ――問題は、この怨人が諦めてくれるのかどうかだ。

 

 諦めない場合は、依然その脅威にさらされ続ける事になる。
 この世界の都市防衛がどの程度機能しているか不明ではあるが、もしこの怨人よりも弱いならば自分たちは災厄を招き入れた事で悪者になるだろう。
 もしこの怨人を軽々倒せる戦力があるのであれば、むしろ自分たちも間違われて殺されかねないという懸念もある。

 追うのを諦めてくれれば、まだこちらに敵意がないことを示したり、街を迂回してもっと内陸へ直接進むことも視野に入れられる。

 

 そう、至誠は様々な状況を想定しつつ見下ろすと、明らかに変化があった。

 

 月光で判別は難しいが、眼下には草木らしき物体もわずかに散見される。
 そしてなにより、怨人がまるでいなくなっていた。
 後方から追いかけてくるのも、超高速の個体のみだ。

 ――あとはこいつを何とかすれば!

 至誠のそんな考えと時を同じくして、街の上空へ入ろうとしている。

 街を上から俯瞰すると、どうやら城塞都市の様相だとミグは気付いた。

 直後、魔法か鬼道による光の照射を受けた。
 少ししてけたたましい音が鳴り響く。まるで警報音だ。

 

 それとほぼ同時だった。
 リッチェは再び違和感を覚えた。
 先ほどよりも強く、風圧を防ぐ魔法防壁に歪みが生じた気がした――

 

 

 かと思っていると、ヒビが入り一気に防壁が崩壊する。

 

 ――しまった!!!

 

 その瞬間、リッチェと至誠の脳裏に過ぎった。

 

 リッチェは防壁の崩壊がこんなに短時間だとは考え至らなかった。生身で放り出されれば、命に関わる。

 唯一の救いは、個人個人にかけられた防壁を強化していた点だ。それが風圧による被害を食い止めたのは間違いない。

 

 それでも飛翔魔法は剥がれ、加速装置も維持出来なくなり、一行はバラバラに空中へ投げ出された。

 

 

 至誠は知っていたはずだ。音速を超える際に発生する衝撃は凄まじいと。

 なのにそこを軽視していたのは、怨人のソニックブームを魔法が防いでいた為だ。だから自分たちが音速に近づいても大丈夫だろうと、そう無意識に思い込んでいた。

 だがその後悔を感じる暇も無く、至誠は単身で空中へ放り出されると、徐々に重力に引っ張られ降下し始める。音速にも近い速度のまま。

 

 その衝撃のなかで、ヴァルルーツはテサロを離さなかった。
 テサロの体を任された以上、いかなる状況においても決して手放さないと屈強な意思が体を支配していた。

 

 その様子に気付き、リッチェは至誠を優先させる。
 狼人としての身体能力と魔法技術があれば、テサロを抱えた状態でも無事に着地出来るだろうと考えてのことだ。

 だが至誠は魔法も鬼道も使えない。

 ――助けなきゃ!!

 リッチェの頭にはそれしかなかった。
 彼は師匠の恩人であり、陛下の気に入った人物であり、そしてなにより自分に託された人物だからだ。

 

 だがその隙間に怨人が割って入る。

 

 

 その巨大な躯は一直線に至誠を補足し、今まさに喰らいつかんと口をひらく。

 

 至誠の体内にいたミグは鬼道陣を発動させると、自由落下へ干渉し、空中で方向を転換することで辛うじて怨人を回避した。

 

 だが怨人が飛び抜けた衝撃波によって、一行はさらに散り散りに吹き飛ばされ離れていく。

 

 怨人は機首を持ち上げ、その体躯を急上昇させると、再び至誠めがけ急降下してくる。

 

 だがこのままでは怨人よりも落下による地面への激突が先だ。

 

 視界にはイタリアの観光地のような色鮮やかな屋根と白い壁、石畳が特徴の光景が迫り――

 

 視界が真っ赤に染まったレッドアウトしたかと思うと、至誠は意識を失った。

第二四話

 ヴァルルーツはミグが流血鬼であることを知っていた。
 彼女らを皇国で迎え入れた際に目にしており、かつその種族が鬼人系統に属している種族である事を聞き及んでいた。

 すなわち、最も魔法を苦手とする鬼人系統種だ。

 そんな彼女が魔法の術式を準備するという言葉に、耳を疑いかけた。

 

 それでも、そう断言できる彼女を信じるしか道はなかった。

 

 

 ミグはテサロの体に侵入し、体内から鬼道を用い治療を行っていた。

 それとは別に、本来の流血鬼の特性として、侵入した対象の体を操ることが出来る。その力でミグはテサロの腕を操ると、手の平の上に術式を構築する。

 マナを流し込まなければ発動しない状態で留めている。

 テサロのマナはまだ残っている。
 しかしマナとエスは互いに打ち消し合う性質があり、テサロのマナを使うことで鬼道による治療が阻害される恐れがあった。
 故に、発動にはヴァルルーツのマナを必要とした。

 

『リッチェは回避を優先! 攻撃のタイミングに配慮しなくていい!』

 そう声を上げると同時にミグの術式は完成する。

 

 ヴァルルーツがそれを受け取ると、すぐに発動を開始する。

 

 ミグの構築した魔法は爆裂魔法だ。
 

 攻撃を放った後、接触によって爆裂を引き起こす。
 尋常ではないのは、その構造だ。

 幾重にも爆裂の術式をかみ合わせ、相乗的に威力を増す構造をしていた。

 術式を起動していたヴァルルーツはその構造に驚嘆を零す。
 魔法に適していないはずの種族が、自分よりも高度な魔法を構築出来る事実に対してだ。

 だが今は感動している場合でも、嫉妬している場合でもない。

 

 超高速の怨人は何度も幾重にも襲撃するが、それをリッチェは全てをかわしきる。

 遠距離攻撃もなく直線的な攻撃ばかりの怨人を、むしろ見切り始めていた。

 だが油断は大敵だ。

 見切ったと思わせて不意に行動パターンを変えるのは、戦いにおける定石の一つでもある。皆の命を背負って飛翔する以上、あらゆる慢心はふるい落とす。

 

 その間にヴァルルーツは魔法の準備を終えた。
 テサロのような熟練者ならば一瞬で収束が完了できるだろう。しかし残念ながらヴァルルーツはその領域にない。
 一分以上もかかり、その間にどれほどの襲来を回避したことか。

 

 だがそれもこれで最後だと、狙いを定める。

 

 この怨人にはいくつかの襲来パターンがある。

 

 背後から急加速し襲ってくる場合。
 上空から急降下して襲ってくる場合。
 前方から股ぐらを開き、足で挟み込むように襲ってくる場合。

 希に横や斜めから襲来することもあるが、基本はこの三つだ。

 そして狙うのは、背後につけこちらに狙いを定める――その瞬間だ。

 

 魔法を発動できる段階で待機している状態は、さらに周囲の怨人の襲来を招く。

 

 しかしリッチェはその全てを回避し――そして好機が到来した。

 

 ヴァルルーツの発動した魔法陣から、雷撃が怨人に向かって放たれる。

 

 超音速の怨人と超高速な雷撃によって両者の距離が瞬間的に縮まると、怨人の左足先に命中する。

 雷撃は足を伝い体躯に流れると、間髪を入れず爆裂を引き起こす。
 さらに爆裂が爆裂を誘い、引火するように相乗的に爆発が起こった。

 

「よし!」

 

 ヴァルルーツが喚声を上げる。
 だが――

 

 爆裂で発生した黒煙からその個体は飛び出してくる。皮膚はただれ肉がむき出しになっている箇所も多々ある。

 しかし速度は全く落ちていない。
 その口も、顔も、腕もまだ繋がっている。

 

 突進してくるその個体をリッチェは回避し、すれ違うその瞬間に、想定よりも遙かにダメージが通っていない事をミグは察知した。

 

『ダメか――』

 

 術式の精度が低い上に、使用できたマナが少ない。

 どちらの責任でもない。
 ただミグは次の一手を考える。考えなければならない。

 貫通力を生かした魔法を構築し直すか。あるいは斬撃。
 だがヴァルルーツのマナではせいぜいあと二回から三回の攻撃が限界であり、同程度の条件ではあの個体を抑えられない事が想像に難くない。

 ――自分が鬼道を用いて追撃するか?

 ミグにはあの個体を倒すだけの切り札があった。
 だがそれは最後の手段に取っておくべきだ。

 ミグの発動できる最大火力の鬼道は、魔法による飛行術式を相殺し墜落させる可能性が高く、そのうえテサロの治療に回せる余力がなくなる公算が高い。

 それらを鑑み、『全滅するよりは至誠だけでも生かすべき最悪の状況』まで行使は出来ないと判断する。

 ――リッチェを攻撃に回せれば良いが、その場合は誰が飛翔を請け負う?

 そんな思考の最中に声を上げたのは至誠だった。

 

「リッチェさん! こちらも音速を超えることはできませんか!? 毎時一二〇〇キロ一五〇〇ギルク以上です!」

 

 が伝わるか分からなかったので、至誠は時速も加えて問いかける。

 

「む、無理です! 私ではそんなに速くは――」

 

 返答の最中にも怨人は飛来し、それを何とか回避する。

 

「ミグさん! 魔法を放つ際の反動で加速する事は!?」

 

 ミグは、至誠の言わんとしている事が分かった。
 すなわち超高速の怨人よりも速度を出し振り切ろうとの考えだ。

 

 魔法は起点から外側へ向かう性質があり、鬼道は外側から起点に向かうという流れが原則性質だ。

 たとえば魔法での飛翔は、起点となる術式を対象の下と後方に配置し、外側へ向かう性質に乗せる要領だ。
 逆に鬼道では体の上と前方に起点となる術式を配置し、引っ張る要領で用いる。

 だがそれは、起点となる箇所そのものに推進力が得られる訳ではない。
 もし起点に反動があるようであれば、大がかりな術式を用いた際に術者が吹き飛ばされてしまうだろう。

 そして最大限の推進力を得られる術式こそが現在の飛翔魔法だ。

 テサロならまだしも、リッチェでは全速力でも現在の時速五〇〇ギルク三九二キロメートル程度が限界だ。
 そしてその速度の維持すら、この場において代役がいない。

 ミグの切り札を使えば、至誠の体を使った単体の飛行にてもっと速度を出すことが可能だろう。

 しかし、それでも至誠の言う速度には届かない。

 

『無理だ! 魔法には加速に使えるほどの反動はない!!』

 
 ――いいや出来るはずだ!
 ミグが体内から感じ取った至誠の感情はそんな否定的なものだった。

 

「さっきの攻撃もテサロさんも、爆発の魔法を使っていました! なら推進力を生み出すことだって出来るはずです!!」

 

 魔法鬼道の原則に則った思考をしていたミグは、至誠のような発想が頭に無かった。

 ――確かに、近くで爆発を起こせば吹き飛ばされるだろう。

 だがそれには致命的な問題がある。

 

『近くで爆発させたらこちらも怪我ではすまない!!』

「魔法で爆発の威力を閉じ込めることは出来ませんか!? 後方に逃げ道を作って、それで反力を得ます!」

『ダメだ! 爆発は一度じゃないんだろう!? そんな推進力を得られる爆発を連続して閉じ込めた防壁が壊れれば、巻き込まれて死ぬことになる!』

 

 自分たちには影響をなくしつつ、爆発による推進力を得るのは難しいのかもしれない――至誠はそう考え、考えを巡らせる。

 

「では空気の制御はどうでしょう!? 前方の空気を圧縮して後方に押し出します!」

 

 目を付けたのは、新幹線ほどの速度で飛行しているにも関わらず、風をほとんど感じないことだ。
 そしてそれがソニックブームすら防ぐことの出来る強固な魔法技術なのだと至誠は理解していた。

 ミグは至誠の案を理解していた。
 ――確かに空気を勢いよく後方へ押し出せば安全に推進力が得られるだろう。
 しかしこちらにも問題がある。

『それでは推進力は期待できない! 今の方が効率的だ!』

 

 ミグがそう判断したのは、それが今の飛翔術式が確立する前の、前時代的手法だったからだ。

 魔法や鬼道によって空気を押しだし飛翔する事は可能だ。
 問題は消費するマナやエスの量に対し、効果が著しく薄いことだ。

 

「それは何℃の話ですか!?」

『なん……度? なんだって?』

「空気の加熱です!」

『なぜ加熱を――』

 

 至誠は考える。

 魔法という未知の力は、日本で知り得る常識が通用しない。
 だが逆に、魔法があるからこそ科学的な分野の発展を阻害している可能性を至誠は考えた。

 先の天文学においてもそうだ。

 地球の大きさなんて紀元前のギリシャでも分かっていたことなのに、彼女らは知り得ていない様子だった。
 テサロは北極星について知っていたが、それ以上の天文知識が無かった。

 そして不浄の地においては、上空ほど高速の個体が跋扈しているらしい。

 そのために飛行技術についても、自分の知るような機構が発展していない。とするならば、ジェットエンジンのような内燃機関は確立されていないと見ていい。

「前方の空気を圧縮し後方へ放出します! その際に加熱させてから後方へ放出することは可能ですか?」

『加熱と言っても、君はどれほどの温度を考えているんだ!?』

「どのくらいの温度でどの程度の効果が出るかは僕にも分かりません! 考えてるのは五〇〇から一〇〇〇℃くらいです!」

『なっ……』

 

 ミグの浮かんでいた推察では熱風程度。
 一〇〇℃にも満たなかった。

 だが至誠はその十倍は考えているという。
 なぜそのような温度が必要なのかと問いかける前に、至誠が先に答えを告げる。

 

「空気は熱量に応じて膨張します! 今の体積を一としたら、二七三℃上昇する毎に倍になります! 五四六℃上昇で三倍です!」

 

 熱による空気の膨張――いや確かにミグの知識でも似たような知識はあった。
 だがなぜ二七三℃と分かるのか。
 いや、分かっているのか。

 ――同じだ。

 ミグは直感する。
 これも我々の知らない、至誠の叡智。至誠のいた時代の叡智だ。

 

「僕の時代ではこの原理を使って空を飛ぶ乗り物を作っていました! ミグさんもその光景を見たはずです!」

 

 大勢の人が乗り込み空を飛翔する乗り物――その原理を説明しているのだと理解した。

 

『……わかった! やってみよう!!』

 

 平時であれば、もっと議論を詰めて進めるべきだろう。
 しかし残念ながら、そんな余地はない。

 それでもミグが未知の概念を試すことを決定するのは、彼の言動に説得力があるからだ。

 力強く確信めいたその言葉は、差し迫った状況においてなお、希望を見せてくれる。

 そして事実、彼の導き出した論理が不浄の地の脱出に大きく貢献している。

 ミグはそこに、リネーシャ陛下に近しいカリスマ性を感じていた。

 

「まず考えを二段階に分けます! 前段として、前方の空気を取り込み、圧縮し後方へ放出します! これは問題ありませんか!?」

 

『それは、大丈夫!』
 

 鬼道の内側へ向かう性質に空気を乗せ、外へ逃げないよう術式を展開すればいい。

 

「圧縮することで空気の温度が上昇していますので、後段でさらに空気を加熱します! 炎の噴射でも爆発でも構いません。とにかく温度を上げてください! それを後方からのみ排出します! この時、排気口は小さいほど推進力が得られます!」

 

 取り込んだ空気を数倍の体積に拡張して押し出し、そのエネルギーによって推進力を得る。何という発想だ――ミグは至誠の世界に戦慄すら覚える。

 だが今すべきことは、彼の叡智を少しでも高精度で再現することだ。

 

『至誠、体を借りるよ!』

 

 そう宣言すると、体が己の意思に反して勝手に動き出す。
 と同時に、至誠の手の平や周囲に鬼道陣が出現したかと思うと、ミグはさらなる術式を足下に作っていく。

 

 鬼道による空気の圧縮。

 鬼道の基本は外から内へ向かう力だ。

 空気を大きな鬼道陣へ引き寄せると、その奥の一回り小さく引き寄せる力の強い陣へさらに引き寄せる。
 それを幾重にも繰り返し、小さく強力な陣へ集約させる。

 

『リッチェ! 杖を下向きにして!』

 

 リッチェは理解が及ばない表情だったが、躊躇なく指示に従った。
 この間にも怨人による襲撃が絶え間なく続いている。それを回避しつつの行動だったが、回避に影響は出なかった。

 リッチェの杖の先端が足下へ向けられると、ミグは再びテサロの体を使い魔法陣を構築する。

 その魔法術式は、炎を放出させる為のものだ。

 それ自体はリッチェの杖に組み込んであった火炎の魔法術式の流用だ。
 杖の術式を使わずとも構築は可能だが、すでに作ってある術式を流用することで時間を短縮させることが出来た。

 そして圧縮した空気を排出するすぐ後方に、炎の噴射術式を複数配置した。

 最後に空気の断絶を行う為の魔法術式を展開する。鬼道と魔法は直接触れあうと打ち消し合うので、魔法陣で形作る隔壁と鬼道陣は触れないように注意しなくてはならない。

 そして瓢箪ひょうたんのような空気の通り道が出来上がる。

 

 だが魔法の発動はまだだ。
 テサロの体で魔法を使うと治療術式が水の泡となる。

 

『リッチェ! 魔法術式を継承させる! タイミングを教えて!』

「はい!」

 二度の襲来を避けると、リッチェは声を上げる。

「今です!」

 

 襲来の隙を見て魔法を受け取ると、リッチェは魔法陣を発動させはじめる。

 

『まずは外枠から! 内部の術式はこっちと合わせて!』

「はい!」

 

 再三の襲来を避け、外殻となる魔法が構築される。

 

『次にあの怨人が後方から襲ってきたら、回避した直後に発動させるよ!』

 

 ミグの宣言後、すぐに怨人は後方から飛来する。

 それを回避し、リッチェは内部の火炎魔法を発動させる。
 同時にミグも至誠の体内から鬼道陣を発動させた。

 

 空気が取り込まれ始める。

 

 徐々に鬼道陣による空気の取り込み出力が向上していく。

 

 それに伴い、後方から排出される空気圧も勢いを増すと同時に圧縮された空気そのものが熱を帯びる。

 

 高温高圧で排出された空気は炎の魔法でさらに加熱され、急激に膨張した空気が、唯一の排気口である後方から我先にと飛び出していく。

 

「なっ、なにこれ……!」

 

 その加速装置はリッチェの杖の先端で構築されていた。
 杖から伝わる徐々に速度の上がっていく感覚に、リッチェは動揺にも似た言葉を漏らす。

 

 そして、飛翔は加速する。

第二三話

 静寂が闇夜に響く。

 そろそろか――至誠は月の高度差から、まもなく転進する予定の三時間が経過する頃だと推測する。

 

 きわどい場面はあったが、結果から言えばこれまでの飛行は順調だ。

 

 それでなくとも、三時間ものあいだ気を張り続けなくてはならないのは精神を疲弊させる。特に舵取りを行うリッチェの負担は膨大だ。
 だからといって休憩を取る場所もなければ、気分転換を行う余裕もない。

 ――でも怨人の数は減ってきている気がする。

 改めて周囲を見渡してみるが、大型の個体は数えるほどしか残っていない。

 

 不浄の奥地の方が巨大な怨人が多いとテサロは言っていた。
 すなわち大型怨人が減るということは、不浄の地を抜けつつあると考えられ、至誠の提唱した方針に間違いがなかったのだと、精神的に大きく後押しをしている。

 一方で問題もある。

 周囲にいる怨人の体が小さくなった分、速度や跳躍力を増した個体が増えた事だ。
 さらに目視による発見の難易度が上がることは、精神的負担が極めて増大する。

 

 もう一つ精神的に辛い事がある。

 

 怨人はこちらを一度補足すると、なかなか追ってくるのを諦めない。
 鈍足の怨人はすぐに引き離せるが、同程度の速度が出せる個体は延々と追いかけてきている。

 後方にいる大型の怨人の大半が、その追尾組だ。

 空中に居る個体はまだ比較しやすいが、地上を猛追してくる個体は土煙と闇夜でその全容すら分からない。

 

 ただ少なくとも、自分たち以上の速度が出せる個体に未だ出会っていないのは不幸中の幸いだ。

 

「ミグさん、話しかけても大丈夫ですか?」

『うん、いいよ』

 

 その声は疲労を含んでいた。

 三時間も連続して治療を続けていれば疲れもするだろう。
 至誠には分からないが、鬼道にもエスと呼ばれる体内エネルギーが必要だと言っていた。

 

 それでも、確認しておかなければならないと思い、言葉を続ける。

 

「このまま神託の地に逃げ込んだ場合、後ろの怨人はどうなりますか? そのまま追いかけてきたりしませんか?」

 

 どう答えた者か悩ましい――と言いたげな間を開けつつも、ミグは答えてくれる。

 

『どうなるかは分からない。けど、怨人は神託の地を嫌がっているようだから、大半は追ってくるのを諦めるはずだよ』

「諦めない場合もあるって事ですか?」

『希にある。でも神託の地領内なら、殺しても集まってこないから大丈夫だといわれてるよ。追ってきても少数なはずだから、なんとか――』

 

 ミグが説明を止める。
 別の何かに気を取られた為にフェードアウトしたようだ。

 それがこの状況下で良くないことであると想像に難くない。

 

『マズイ!!! 高高度から急降下してくる!!!』

 

 引き寄せられるように全員の視線が上空へ向くが、周囲には数体の怨人が浮遊している。しかしその動きは鈍重で追いつける気配がない。

 ミグの次にその個体に気付いたのはリッチェだった。
 疲弊していたが、研ぎ澄まされた感覚がを補足する。

 はじめは満月の中に浮かぶ極小の影だった。
 だがそれは、またたく間に影は肥大化していく。

 

 リッチェは危険が増すのを承知で飛翔速度を向上させた。
 そうしなくてはならないと直感がよぎるほど、その個体は超高速で降下してきていたからだ。

 

 周囲の飛行する怨人を気球と例えるなら、まさに飛行機だ――至誠がそう考えている間にその高速個体は頭上に差し迫っていた。

 

 高速の怨人は、飛翔する一行に襲いかかる。
 まるで湖面に映る魚を捕らえた鳥の様に、その足裏に付いた巨大な口を開く。

 

 リッチェは急減速させ、身を翻す。

 

 直後、目の前を怨人が飛び抜けた。
 急降下し勢い余った怨人は地上へ衝突――するかに思われたが、地上間際で機首を上げると再び高度を取り始める。

 

 と、同時に、凄まじい衝撃波と空気を切り裂く轟音が一行を襲う。

 

 ――ソニックブーム!?

 

 その衝撃自体は、すでに展開している魔法によって被害はなかった。生身で飛翔していても風をほとんど感じないのはその魔法の効果だ。

 だがその衝撃波を受けた影響で、全体の高度が下がった。
 数十メートルは降下させられると、その瞬間に地上から数体の怨人が跳躍して襲いかかってきた。

 リッチェは杖先から魔法防壁を発動させると、怨人との間へ滑り込ませる。

 

 その防壁はわずかな時間で破られたが、その間に飛翔を立て直すこと出来た。

 

 

 高高度から飛来した怨人は、仰向けになっていた一〇メートル大の女性の体だ。
 胴体には人と同じ形状の胸部と腹部、脚部があり、飛行する前方へ足を突き出している。その両足の裏に巨大な口が一つずつ。

 肩からは翼のように腕が生えているが、その腕は胴体に比べて大きく長く平べったい。その全長は胴体の三倍以上はある様相だ。

 首から上がなく、代わりに乳房があるべき部位に頭部が生えている。それは人と同じ配置の顔だ。目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。毛はない。その部位だけを見れば、中年男性の様相だ。それ片乳房ごとに違った容姿をしている。

 双頭は常にこちらへ視線を向け、視線を逸らすどころかまばたき一つしない。

 

 至誠はその速さを飛行機だとイメージしたが、その認識は誤りだった。
 あれはジェット戦闘機の方が近い。

 今の襲撃では、明らかに音が遅れてやってきた。

 つまりあの個体は事になる。
 そんな個体がうじゃうじゃいるのであれば、ミグが高度を取ることに反対したのも頷ける。

 

 超音速の怨人は、その速度のため大きく旋回していた。

 しかしリッチェが体勢を立て直す間に背後につけると、衝撃波を可視化させながら急加速し突進してきた。 
 一瞬見えたそれは、低空で音速を超える際に生じる円形の雲だと至誠は直感した。

 

 リッチェはその機動力を生かし、直進してくる怨人を回避する。

 

 直後、先ほどと同じように強い衝撃波が襲い、同時に何かが炸裂した音が耳に付く。

 

 至誠はそれが音速を超える際に発生する音ソニックブームだと確信した。
 それも高高度からの急降下による加速ではない。あの個体は、で音速を超える力を持っている。

 

 ――マズイ。これではレシプロ機とジェット戦闘機だ。

 

 加えて、超音速の個体が現れたからと言って周囲の別個体が待ってくれるはずもない。
 小型の怨人は衝撃波で吹き飛ばされることがあっても、あらかじめ勘定に入れることなど出来るはずがない。

 

 リッチェは細かく方向転換を繰り返しながら不規則な回避運動をとり続ける。

 

 

 その最中、ヴァルルーツは何も出来ない自分が悔しかった。
 それでも今はテサロという英傑をその腕に抱えている。
 
 だが他にも今はやることはある。
 あの超高速の怨人は確かに脅威だ。だがそこに気を取られて、周囲の怨人に不意を突かれては元も子もない。

 リッチェは回避に専念しているだろう。

 ならば、わずかでも自分が索敵を補うのだと、周囲に目を配った。
 もしも跳躍してきた怨人に彼女リッチェが気付いていなければ、即座に教える必要がある。

 ヴァルルーツは全神経を周囲へ向ける。
 その途中で、地平線近くのある雲に視線が固定された。

 雲が光を反射している。

 月光ではない。

 

 ヴァルルーツにはそれが、地上の人工的な光だと直感が訴えた。

 

「至誠殿!!!」

 

 ヴァルルーツの尋常ならざる声に、至誠は即座に視線を向ける。

 

「あそこに見えるのは街の灯火ともしびでは!!?」

 両腕でテサロを抱えるヴァルルーツは指先で方角を示せず、顔先を向ける。

 至誠がその意味するところを察し、視線を向けると、確かに雲から薄らと光が漏れている様が見て取れた。

 

 夜空から方角を確認する。
 ――北東。
 当初の理論が間違っていなかったならば、そこに見えるのは街の光である可能性が極めて高い。

 

 至誠もその希望を直感する。

 

 だが現在地から地平線近くの灯火までどれほど距離があるか分からない。
 平時であれば高度から地平線の距離を算出する事も考えられたかもしれない。
 だが襲い来る超音速の怨人によって、そのような余裕は全くない。

 今できる事と言えば、可及的速やかにそこへ向かうことだ。

 至誠はリッチェへ指示を飛ばす。

 

「あの光の方へ向かいましょう!!!」

 

 リッチェはその光景を一瞥すると、周囲の怨人の様子をうかがう。

 

 三度みたび怨人の襲来を回避すると、飛翔は転進し、北東方面へ舵を切った。

 音速越えの怨人は垂直上昇を行うと、一転、体を捻り体勢を反転させると急降下してくる。

 それを減速しながら右へ回避すると、その前方から跳躍してくる怨人が現れ、さらに進行方向が右へ傾く。

 

 北東方面へ調整しようとすると、超高速の怨人が再び襲来する。

 

 リッチェはそれをも回避するが、この個体がいる限り蛇行するように回避し続けなければならない。

 そのうえ一度でも回避を失敗することは、全員の死を意味する。

 

「攻撃しましょう!!」

 

 至誠の提案する意図は明確だった。
 たとえ攻撃によってさらなる怨人の襲来が発生したとしても、この超高速の個体がいなくなれば状況は今よりずっと好転する。

 

『分かった! リッチェは回避に集中して!』

 

 補足するようにミグも声を荒らげる。

 

『気を抜いたら一発でもってかれる! 攻撃はこちらで担当するよ!!』

「はい!」

 

 リッチェの返答を受け、ミグはヴァルルーツに声をかける。

 

『王子! あの個体に効く魔法は何かない!?』

「い、いえ! 私は近距離の術式構成で――出来たとしても中距離です!」

『分かった! 術式はこちらで準備する。マナと狙撃の準備を!!』

第二二話

 直後、一体の怨人が上空から飛来していることにリッチェは気付いた。
 精神的な緩急は激しかった事、術式を受け取った直後である事、編隊の調整に意識が取られていた事が重なり、完全にその個体を見落としていた。

 

 直径三〇メートル程度の肉塊だと思われたそれは、重力によって加速し一行の頭上まで急接近すると、折りたたんでいた手の平を広げる。
 まるで雪花のように六つの手の平が広げられ、その手の平と甲には巨大な眼球が露出している。手首の結合部分には巨大な口が付属していた。
 まるで網のように広がる怨人は直径は一〇〇メートルにも及ぶ勢いだ。

 

 そしてなおも一行を逃がすまいと降下している。

 ――マズイ!

 リッチェの脳裏にそんな感情が溢れた。 
 飛来する肉塊の大きさなら、気付いた段階では避けられる算段だった。だがそれがこれほど大きく変形するとは想定していなかった。

 

 リッチェの脳裏に最悪の光景が過ぎる最中、魔法術式は瞬く間に構築されると、瞬間的に収束し、背後から放たれた。
 その攻撃はその怨人の一翼を吹き飛ばし襲撃網に穴を開ける。

 リッチェが振り返ると、虚ろな瞳で魔法を放ったテサロの姿があった。

 

「しっか……と、前を……さい」

 

 テサロは叱責の言葉もままならず、ゆっくりと瞳は閉じられる。
 ヴァルルーツに抱えられた体は力なく横になり、先ほどまで魔法を行使していた腕は垂れ下がっていた。

 

『大丈夫、気を失っただけだよ』

 

 嫌な想像が脳裏を過ぎった。
 しかし先回その思考に先手を打ち教えてくれるミグによって、リッチェの動揺は安堵に変わる。

 

『でもこれ以上援護は出来ない。注意して』

 

 事実、あの魔法がなければ危なかった。
 そしてそれが自分の未熟さ故だと痛感している。

 そして次がないことも。

 リッチェは肝に銘じ、いっそう気を引き締める。

 

「少し西にずれています。修正しましょう」

 

 周囲に今すぐ脅威となる怨人が見当たらないことを確認し、至誠は声をかける。

 方向がずれたのは今の襲撃の結果だが、その事にリッチェは気付いていなかった。そもそも現在の方角が分からない。

 

「あの星が北極星です。あれを基準にしてください」

 

 至誠は北極星を指さし、方角を示す。
 それにより北がどちらかは分かったが、リッチェに星の違いがほとんど分からない。

 狼狽えた言葉をもらしていると、至誠はリッチェの手を引き寄せ体を近づける。

 

「あれです。あの一番光ってるやつ」

 

 視線に合わせて指し示してもらうことで、ようやく北極星を理解した。

 

「また分からなくなったら言って下さい」

 

 至誠はリッチェの体からは離れつつ、それと――と、問いかける。

 

「今どのくらいの速度が出ているか分かりますか?」

 

 リッチェは新たに魔法陣を展開させると、すぐに結果を伝える。

 

「えっと……一〇〇ルク七八メートル毎秒くらいです」

 

 秒速七八メートル。
 分速四六八〇メートル。
 時速約二八〇キロメートル。

 すなわち、新幹線と同程度だとイメージする。

 これなら一〇〇〇キロメートルの道のりだと約三時間半で踏破できる計算だ。

 

 しかし懸念がある。

 

 真北へ北上すれば、計算上は神託の地の西端をかすめる。
 しかしそれは経度の計算が正しかったときの場合だ。

 観測誤差が一度毎に一一一キロメートル変わる事になる。

 現在はやや東寄りの北――北微東から北北東方面を目指している。その角度はおおよそ東へ一〇度程度だ。

 正接タンジェント一〇度の値は覚えて居らず、関数電卓もスマホもない現状では計算が出来ない。

 だがもし、三〇度東へ向かわなければならない程西にずれていた場合は面倒なことになる。

 仮に、一〇〇〇キロメートル北上するのと、三〇度東へ進む場合の直線距離を計算してみる。

 正接タンジェント三〇度は、ルート三分の一。

 ルート三は一.七三二〇五〇八人並みにおごれや

 暗算しやすいように小数点第二未満を切り捨ての一.七三とする。

 そこから一割ることの一.七三で、およそ〇.五七八。

 これを一〇〇〇倍すると五七八。

 

 すなわち北極星に対し三〇度東向きに進めば、五七八キロメートル東の地点に到達する。

 

 その方が確実に神託の地領内に到達出来るだろう。
 そしてその場合の直線距離は、三平方の定理を用いて約一一五五キロメートルだと分かる。

 

 差し引き一五五キロメートルを許容できるかが問題だ。

 

 何せ切羽詰まっている。一刻も早く不浄の地を脱出できるにこしたことはない。

 そもそも約一〇〇〇キロメートルという数字も不確定要素を多分に含んでいる。

 

 緯度も一度計り間違えている毎に一一一キロメートルの誤差だ。

 近くなるならいい。
 だが遠のく場合は、さらに正接三〇度分の直線距離が加算される。

 緯度が三度遠のいた場合を試算すると、一五〇〇キロメートルとなった。

 

 ――当初の一.五倍だ。

 

 その距離を時速二八〇キロメートルで飛行した場合、五時間二〇分ほどになる。

 さらに距離が離れていた場合はマズイ。

 日の出と共に北極星は見えなくなる。
 そうなれば太陽を基準に飛ばなくてはならなくなるが、長時間太陽を直視する事は避けたい。その点は魔法や鬼道で何とかなるかも知れないが、高度を計れるミグが治療で手が離せないかも知れない。

 そもそも一〇〇〇キロメートルも進めば天気も変わる事は十分にある。太陽が曇天に隠れていない保証はどこにもない。

 それに最終的には街明かりを探しだし、そこへ進行方向を修正するのが好ましい。だが昼になってしまうとそれも難しくなるだろう。 

 怨人の性質も不明瞭ばかりだ。もし昼夜で動きが変わるようなら不測の事態が発生しやすくなる。

 いや、そもそもの話、飛行は魔法で行っている。
 魔法にはマナが必要だと言っていた。
 そしてマナは体内で生成されるとも。

 つまりは有限だ。

 化け物の跋扈するこの地でいつまでも正常な精神状態でいられる保証はない。

 

 特に、当初の想定よりも飛行時間が長引けば、この理論の信頼性そのものが揺らぎ、精神的にも物理的にも空中分解しかねない。

 

 ――無駄な飛行は出来ない。

 

「リッチェさん、予定を修正します。真北に向かいましょう」

「えっ、は、はい!」

 

 そう声を上げる至誠の真意をリッチェは理解出来なかったが、唯一の道標である彼が言うのだからと肯定する。

 

「このまま飛行した場合、四時間弱で抜け出せると思いますが、計算の誤差を考慮して±一時間で想定しておいてください」

「わっ、分かりました!」

 

 飛行時間を多めに見積もった上で、前後することを予め伝えておく。それによって、不浄の地の脱出に手間取っても多少の精神的余裕が確保出来るだろう。

 そう考えての言葉に対し、リッチェは目を丸くする。

 

「どうしました?」

 

 自分の理論が間違っていただろうかと、至誠は首を傾げた。

 

「い、いえ。凄いと思いまして――」

「そんな事はないですよ。魔法が使える方がよっぽど凄いです」

 

 そう返すと、リッチェはわずかばかり頬を赤らめ視線を前へ戻す。

 

「ところで魔法にはマナが必要だったと思いますけど、五時間もの間飛ぶことについては大丈夫そうですか?」

「それは、はい。マナの生成速度と保有量には自信があります」

 術式構築はまだまだですが――と小声で自虐する様子が至誠の耳にも届いた。

「飛行速度はこれが限界なんですか?」

「いえ。もっと出すことはできます。ただ速度が上がるほど、回避に取れる猶予が減るので、私の実力ではこれくらいが最適だと思います」

 怨人は跳躍し襲ってくる固体もあれば、上空から飛来する固体も居る。
 特に地上から跳躍する固体は靄で隠れていることもあり、こちらの速度が上がるほど衝突の危険性が高まる。

 ――気付けば化け物の口の中なんて事態はお断りだ。

「高度をもっと上げるのはどうでしょう」

 現在は地上三百メートルほどを飛行している。
 せめて地上からの跳躍が届かない高さまで昇れれば精神的に楽になるだろう。

「そうですね――」

 リッチェはテサロから引き継いだのは飛翔魔法だけではない。
 その速度と高度もテサロと同じ状態を維持していた。
 それが最適なのだろうと無意識に判断していたが、高度を上げるべきかも知れないと考える。
 
 しかし、それをミグが否定する。

『いや――』

 

 ミグは治療の手を緩めながら、高度は取るべきではない理由について教えてくれる。

 

『怨人は棲む領域によって大まかな特徴がある。結論から言えば、高度を上げるほど素速い固体が増える。そうなると回避しても追いつかれるから攻撃しなくちゃならない』

 

 だが問題はそれだけでは無い。

 

『怨人は怨人以外の生物を感知して敵対行動をとる。けどそれは目視によることが判明している。けど魔法や鬼道は違う。大がかりな術式を使うほど、広範囲の怨人に察知される』

 すなわち、攻撃は極力避けるべきだが、高度を取れば攻撃せざるを得ない固体が増えると言う事だ。
 明らかに目視出来ないであろう靄の中からも的確に襲ってくるのは、一行が飛翔魔法や鬼道による治療術式を展開している為だ。

 もっとも、飛翔も治療も止めるわけにはいかないので、これは必要経費となる。

 

『さらに避けるべきは、怨人を殺すこと。これによってさらに広範囲の怨人に察知されてしまう』

 

 テサロが逃げに徹し、最後の攻撃でも突破口を作るだけの部位破壊に留めた理由はそこだ。

 テサロほどにもなれば怨人一体を倒す事はそう難しいことではない。だが攻撃に用いる高出力魔法と、怨人を殺害することによって受ける怨人の波状襲来は、いずれ押し切られるだろう。

 

『遠征調査の時はこの習性を利用して、陛下や殿下が余所で暴れて一帯の怨人を引きつけている間に探索するんだけどね』

 

 だが現状では絶対に避けるべきだとミグは告げる。

 

「分かりました。では高度と速度はこのままで。三時間ほどしたら北東方面へ転進します。その後、街明かりを探して正確な地点を探します」

 

 至誠の判断は賭けだ。

 北への距離が足りない場合と、東への距離が足りない場合が考えられる。
 そのため、ある程度北上した後に北東へ転進するのがもっとも無駄が少なく、両方をカバーできると考えた。

 

 もっとも、そもそも根底が狂っている場合は見当違いで破綻した論理なのだが、それを口にしてはいけないと理解していた。

 

 希望を口にする以上は、最後までそれを信じて突き進むしかない。

 

 

 そして至誠の方針に異議は上がらず、方針が決定する。

 

第二一話

『――分かった』

 

 ミグはそう返答する。
 

『リッチェ、術式の引き継ぎを』

 

 ミグの決断に、テサロは柔らかな微笑みを零す。

 

「あなたにはいつも苦労をかけますね」

 

 涙を流すことでようやく思考が戻りつつあったリッチェは、居た堪れない様に声を上げる。

 

「でっ、でも! 師匠が……」

『最優先すべきは、だよ。それ以上に重要な事は、ない』

「そうですリッチェ。はじめましょう。もう、長くは持たないでしょう」

 

 このまま見過ごす訳にはいかない――そうヴァルルーツは割って入ろうとしたが、それを事前に静止したのは至誠だった。

 

 その行為に、ヴァルルーツは怒りを覚えた。

 確かにこの至誠という人物は重要な人物なのだろう。
 それは王子たる自分など比にならない程なのだろう。

 だがテサロの行動を容認すると言う事は、すなわち見捨てるのと同義だ。
 そうなれば確かに彼の生存率は上がるのだろう。

 ――その我が身可愛さで、これほど秀でた叡智と人格を持つ淑女を見せ捨てるというのか!

 そう憤慨を感じずにはいられなかった。
 だがしかし、だからといってこの状況をひっくり返すだけの言動が思いつかない。

 ――感情論に任せて場を掻き回す事は簡単だ。

 それでは意味がなく、下手をすれば全員の命に関わる事を理解していた。

 

 ヴァルルーツの葛藤の最中、テサロは即座に襲ってくる怨人が周囲に居ない時を見計らい、飛翔に関わる術式をリッチェへ継承させる。

 

 その間に何とかリッチェは涙を押さえ込もうと奮闘していた。

 

 時間にして数分。

 

 その間に怨人の襲来はあったが、テサロは器用にそれを回避しつつ、術式の継承を続行する。

 

 そしてリッチェがそれを受け取り、飛翔魔法が受け継がれた。

 

 

「リッチェ、あとは――」

 

 

 テサロが口を開く。

 

 

 と、同時。

 

 

 

 ミグが至誠の体内から鬼道を発動させた。

 

 飛翔魔法に干渉し一時的にその影響下から脱すると、至誠の体が一気にテサロに近づき、その老いた体へとつかみかかる。

 

「何を……!」

 

 テサロが驚き言葉を漏らすと同時、自身の体に一瞬の痛みが走るのに気付いた。
 それがミグの行動だと理解出来たが、オドに汚染された体はテサロの行動を鈍らせる。

 

「これで、テサロさんが降りる時は一緒ですね」

 

 しかし最も驚いたのは至誠の投げかけたその言葉だ。

 

「テサロさんは自分の命を投げ打ってでも僕を助けようとしてくれています。ですが今それをすれば僕も死ぬ事になります。それは出来ませんよね」

 

 流血鬼は侵入した対象の体を乗っ取る事が出来る。
 故に、至誠の言葉はミグのものかとも考えた。

 しかしその雰囲気は体を乗っ取られてのそれとはまるで違う。
 すなわち、この言葉は至誠の意思によるものだ。

 

「なぜ……そのような――」

 

 その行動は、彼の命を無為に危険にさらすだけの行為だ。

 

「皆さんの僕に対しての評価が高いようで嬉しいですが、残念ながら僕は、自分が大層な人間だなんて思っていませんので」

 

 つい先ほどまでで彼は死に怯え、生き残りたいからこそ知恵を働かせていた。
 そんな彼が自ら命の危険性をはらむ行動に出るとはテサロには考え至らなかった。

 ミグの入れ知恵か――そう脳裏に過ぎったが、彼の表情を見てそれが違う事を悟る。

 

「テサロさんは言いました。『全員死ぬか、』。でも、それは間違いです」

 

 この狂気の場において、至誠はにこやかに表情を投げかける。

 

「全員死ぬか、です」

 

 至誠は、自分ではテサロを説得できないと理解していた。

 ミグの口調やリッチェの悲哀を見れば、それまで彼女達が積み上げてきた関係性の一端を見てとれる。

 それに比べて自分は目が覚めて、出会っていったいどれだけの時間が経過したのか。一日はおろか一時間だって怪しいところだ。
 そんな信頼関係で命を大事にするよう説得したところで、全く響かないのは明白だった。

 故に至誠は、自分の切れる行動カードを考える。

 テサロが身を犠牲にする最大の大義名分は『加々良至誠』という異世界人を連れて帰る事だ。
 すなわち、テサロの自己犠牲の行程において自分が巻き添えになる状況を作り出せることが出来れば、必然的にその行動が無に帰する。

 そこで至誠は、組み付きの行動カードを切ると決めた。

 だが魔法という未知の力で抵抗されれば自分など簡単に剥がされてしまう事は想像に難くない。そこで口元を隠し小声でテサロに気付かれないよう、体内に居るミグに小声で伝えておいた。
 現に組み付きが解除されないと言うことは、至誠の分からないところで首尾良くやってくれたのだと理解する。

 

「ミグ……ッ。あなたという人は……!」

 

 至誠の行動がどちらの考えであれ、その実行には高度な鬼道が必要だ。その実行犯たるミグに、テサロは不服を零す。

 

『悪いね。でもってのは嘘じゃない。この先必ずテサロの力が必要になる。だからこそだよ』

 

 テサロの脳裏に響くミグの声は、鬼道によって伝わる音声のみではなかった。この体内から伝わるこの感触は、すでに体内への侵入を許している何よりの証拠だ。

 だがすでにテサロは、ミグの鬼道で身体が強化された至誠と、体内に入り込んだミグの半身に抵抗するだけの力が残されていなかった。

 

 ヴァルルーツは浅慮を恥じた。
 この至誠という男が、自分の命のみを優先するような浅はかな男だと早計な結論を出したことについてだ。

 己は何も出来なかった。
 口では自分が犠牲になるべきだと主張しておきながら、何一つ出来ていない。

 だが彼は違った。
 口ではなく行動を以て状況を一変させた。窮地を脱する道標を示した上に、さらにテサロの自己犠牲をも食い止める最善の一手となった。

 

 ――自分はなんと拙劣せつれつなんだ。

 

 ヴァルルーツは自責の念に駆られる。
 己の無力さから目をそらすように前方へと視線を向けた。

 

 その拍子に前方より跳躍してくる怨人を捉えた。
 だがリッチェは至誠の方を向いてその脅威に気付いていない。

 

「前! リッチェ殿!! 怨人が!!!」

 

 若い女性の胴体が仰向けになっている。顔から腰まである巨大な体躯は四肢が無く、代わりに背中から人と同等の足が四本生えている。
 顔は体に対して正常に付いているが、体が仰向けなので大きく見上げるようにこちらを向け、そこに目や鼻はなく、口が顔一面に裂けるように入っている。

 そんな怨人が、まるで四足歩行動物のように跳躍していた。

 

 ヴァルルーツの叫びによってリッチェは我に返ると、怨人の口がすぐ目の前まで差し迫っていた。

 反射的に飛翔魔法を操作し、間一髪で回避する。

 

『リッチェ!! 飛翔魔法に集中して!!』

 

 ミグは檄を飛ばしつつ公言する。

 

『大丈夫!! テサロは必ず助けるから!!!』

 

 リッチェは目の前で起こった事を上手く理解出来なかった。
 感情で思考力が圧迫されていたからだ。

 しかし聞こえてきたミグの言葉は、脳裏の感情を一新する。

 ――助ける? 助かる?

 至誠の行動とミグの言葉の意味を察したリッチェは、目頭が熱くなるのを感じた。

 

「絶対……。絶対ですよっ!?」

『ああ!』

 まさに干天かんてん慈雨じうだ。
 この安堵、この高揚、この感謝を他にどのように表していいか分からない。

 だがやるべき事は分かっていた。
 随喜ずいきの涙で視野を歪ませている時ではない。

 リッチェはしっかりと前を見据えた。

 

「私もテサロ殿の近くにッ!!」

 

 声を上げたのはヴァルルーツだ。
 自分だけ何もしない訳にはいかなかった。自分がどれほど無知であり無能であろうと、今できる事があるなら何だってやるべきだ。

 そんな彼の言葉で、ミグは方針を修正する。

 

『リッチェ、編隊を変更するよ! うちはこれからテサロの治療に専念する。ヴァルルーツはテサロの体を! テサロにかけられた浮遊術式を解除してリッチェの負担軽減するけど大丈夫!?』

「大丈夫ですッ!」

 それはヴァルルーツに負担が回ってくると言うことだ。
 しかし、先ほどの浅慮を返上する機会を与えられたことにむしろ奮起し、即答した。

 

『至誠はリッチェの横へ! 星々を理解出来るのは至誠だけだ。進行方向の指示を頼む!!』

「離れても大丈夫ですか?」

『大丈夫。テサロの体はこっちで制御してるから』

「分かりました」

 

 ミグの返答を聞いて組み着きを解くと、リッチェの浮遊魔法によって再び体が補足された。

 

 周囲の怨人を警戒しつつ、リッチェは編隊を整え杖を握りしめる。
 しかしそれはすでに怯える自分を支えるためではない。

 

 そして至誠を自分の方へ引き寄せると、その手を握った。