第三〇話

 至誠は立ち上がる。
 先程まであった痛みはすでになく、むしろ体が軽いとすら感じた。

 先ほどの純白の燕尾服を纏った男が何者なのか分からない。
 それでも手には謎の冊子と道具が残されている。

 その事実は揺るぎない。

 至誠には未だ理解が及ばないことだらけだ。
 しかし、事情を知っているらしき人物がいると分かっただけでも大きい。

 同時に思うのは、質問はあれで良かったのか――という後悔だ。

 先の選択肢は衝動的といっていい。

 ――もっと冷静に熟考すべきだった。

 そう反省するが、至誠はすぐに思考を切り替える。

 ――このままクヨクヨしていても仕方がない。

 至誠に今必要なのは、現状の把握だ。

 この世界が自分の知らない世界だとして、今いるこの場所はどこなのか。どういった所なのか。置かれている状況はどうなっているのか。

 無知ほど恐ろしいことはない。

 そう考え、至誠は周囲へ目を配る。

 裏路地かと思ったが、それにも満たない袋小路だった。

 今居るのはその最奥らしい。

 すぐ横に壁があり、鉄格子の付いた扉が固く閉ざされている。

 この袋小路は少なくともL字型になっている。
 少なくとも今立っている場所から開けた路地を見ることは叶わない。

 せいぜい二メートルほどの道幅は舗装されているとは言えず、敷き詰められたレンガは年期を物語るように風化を露見させている。

 同時にジメジメとした空気、少しばかり鼻につく異臭に気付く。

 隅の方にはゴミらしき物が散見している。
 生ゴミこそ少ないものの、食器類や空き瓶らしきものがあり、それが異臭の原因だと推察できた。

 至誠は壁沿いに視線を上げ、なるほど――と納得する。

 壁には集合住宅のように窓が多く見られるが、いずれも固く閉じられている。
 窓を開けるとジメジメとした空気や異臭が入ってくるようでは誰も開けたがらないだろう。

 至誠は先ほどまで寝ていたであろう場所へ視線を落とす。
 八〇センチメートル程度の高さがある樽が並んでおり、その上に一畳ほどの板が乗せられている。

 一見するとゴミの塊だろうが、至誠には簡易的なベッドのように感じた。

 その脇には六つの樽が積まれ、小さな壁を形成している。

 この袋小路に誰かが入ってきたとしても、直視はされない。そんな配置だ。

 ひとまず袋小路の出口まで様子を見に行こうと、至誠は一歩踏み出す。

 それと同時に、至誠は体が自由に動かせなくなった。

 今度はなんだ――と考えるが、直後聞こえてきたのは聞いた事のある声だった。

『――ッ! 至誠ッ!! 大丈夫!?』

 至誠の体は己の意志に反して勝手に動き、腰をわずかに落とし身構え、周囲を警戒するように視線を周囲へ滑らせた。

 声の主はミグだ。

 驚きは確かに感じたが、それ以上に安堵した。

 謎の男は確かにミグの存在をほのめかしていたが、目覚めるのがいつになるかは分からない。その間、まったく知らない世界を一人で行動しなくてはならないかもしれない――そう懸念していたからだ。

 ミグは周囲に脅威が無いことを確認すると、至誠に体の自由を戻す。

 ミグに自分の体を任せたことがあった。
 しかし、不意に体が自分の意志に反して動くと言うのは当分慣れそうにない。
 そんな心境ではあるが、感情の優先順位を意識する。

 ――今はとにかく何がどうなっているのかを知る事だ。決して、ミグの不思議な力に感嘆や驚愕を漏らす時じゃない。

「はい、今のところ」

 至誠の落ち着き払った声を聞き、ミグは溜飲が下がるといったため息を脳裏に響かせる。

 しかしそれも一瞬の事で、すぐに謝罪を口にする。

『ごめんね、驚かせてしまって』

 自分の体が自分の意志に反する。
 それに驚かない者はほとんどいない。
 至誠もその例外に漏れず、内心では驚きと焦りを感じていた。

 ミグは宿主の大まかな感情を読み取る事ができる。
 だからこそ、驚きを感じたが自制心を持って平静を取り戻した経緯を読み取れていた。

「いえ、大丈夫です」

 むろん、至誠の内心は複雑に感情が混ざり合っている。
 焦り、不安、恐怖。
 それでも、意志によってそれを押さえ込んでいる。

 ――強いな。

 ミグは率直にそう思う。

 ――もし自分が見知らぬ世界に投げ出されたら、こうも自制できるだろうか。

 そう考えてのことだ。

 だが懸念しておかなければならないことでもある。

 無理矢理に押さえつけられた精神は、一度崩れ始めると一気に決壊するからだ。
 少なくとも、一度はパニックを起こし嘔吐までしている。

 ――いつまたパニックが起こるかもしれない、って考えておかないと。

 だが先にいくつか確認しておかなければならない事があり、ミグはそのまま本題を切り出す。

『至誠はどこまで覚えてる?』

 ミグの口調におちゃらけた雰囲気はまるでない。
 至誠には焦燥感すら含まれているように感じた。

「えっと……空中で投げ出されたところ、ですね」

『なら記憶障害はなさそうだね。けど――』

 その途中でミグは言葉を詰まらせる。
 何か良くないことがあるのだろうか――と至誠は懸念が脳裏に過ぎると、すぐにミグはすぐに弁明する。

『ああ、ごめん。大丈夫。なんでもない。……ただ、肉体の損傷が全くないから驚いただけ。怪我してないに越したことはないよ』

 至誠には目が覚めた直後に尋常ではない痛みがあった。

 ミグの言っているのはその事だと理解し、燕尾服の知らない男性が治してくれたことを告げるべきだと考えた。

 黙っていても何のメリットもない。
 むしろその人物をミグが知っているならば助かるからだ。

「さっき、ミグさんが起きる直前なんですが、壮年の男性に声をかけられました」

『――ッ!! 何かされたの!?』

 焦りをにじませる口調は、ミグの余裕のなさをうかがわせる。

「その人が魔法か何か……詳しくは分かりませんが、治療してくれました。それまでは全身が痛かったのですけど、ほんの数秒でなくなりました」

『ただの通りがかりの善人――とは思えないね。心当たりとかある? もしくは名前を聞いたりは?』

「いえ。名前も聞けませんでした」

 ただ――と、冊子と謎の金属片を視界に収まるように腕を上げ続けた。

「その人からこれを貰いました」

『――なっ!?』

 その手にあった冊子と金属片を視界に収めたミグは、言葉を失った。

『そんな……まさか――そんな事って――』

 その口ぶりは動揺し、うまく言葉が出てこない様子だ。

『いやでも――やっぱり、何か重要な――』

「知ってる方ですか?」

 事情を知っているかもしれない人物だ。
 彼女がその人物を知っているなら話は早い。

 そう思い至誠は待つが、ミグは言葉を押しとどめ沈黙が続く。

 さらに踏み込んで聞くべきか、ここは引くべきか考えていると、ミグは意を決したように口を開く。

『アーティファクト三一番』

 ゆっくりとした口調は、動揺よりも畏怖に近いと至誠は感じた。

『アーティファクトを生み出すアーティファクトとも、超越者とも呼ばれている人型のアーティファクト。通称、ニコラ・テスラ』

「接触するとまずい人物……って事ですか?」

 もしかしたら危険人物だったかもしれない。
 しかし仮に接触するべきではなかったとしても、あの状況で避ける事などできない。

『むしろ逆。いくら探しても見つからなくて、その存在に懐疑的な人は少なくない』

 至誠の懸念は外れていたようで、考えられる最悪の状況よりはだいぶマシらしい。

 同時に、ひとつの疑問を覚える。

「見つからないのに、存在は知られているんですか?」

『一番有名どころだと、彼の執筆したとされている『霊術大全』ってアーティファクトの本があるの。他にも彼の作ったとされているアーティファクトには、必ず署名が入っている。ニコラ・テスラって。たとえば、これとか』

 ミグは至誠の右腕を動かし、金属片の模様を指さす。
 それが文字で、ニコラ・テスラと書かれているのだと至誠は察した。

 そして――と、ミグは説明を続ける。

『ごく稀に、向こうから接触してくる事例がある。いや……向こうから接触してこないと見つからない、だったかな……』

 ミグは自分を落ち着かせるように長い吐息を零し、「ともあれ――」と続ける。

『至誠が目覚めて一日程しか経っていない。にもかかわらず、向こうから接触してきたって事は……やはり至誠は何か特別な存在なのかも』

 特別な存在。
 至誠は自分のことを特別だとは考えないが、それは自己評価によるものだ。

 自分では普通だと思っていても、他の主観から見れば異質であったり、まったく違う評価が下ることもよくある話だ。

 そして、謎の男が最後に発した言葉が脳裏をよぎる。

「別れ際に、僕の事を『新たなる器』って言ってました」

『新たなる……器?』

 ミグは至誠の体を使って頭を抱える。
 その心境を吐露するかのように。

「出会い頭では、明らかに僕の事を探している口振りでした。それに日本の事や不浄の地から逃げてきた事も知っていたようです」

『日本を……。つまり、異なる世界を行き来できるか、あるいは暗黒時代以前から居るってことだよね――』

 その言葉を受けて、至誠は記憶の奥底で何かが引っかかる感触を覚える。

 ――ニコラ・テスラ。どこかで聞いたことがある気が……。

「その名前をどこかで聞いた事がある……気がします」

『本当!? それはどこで?』

 見切り発車でそう口にしたはいいものの、それ以上は有益な内容を思い出せなかった。

「――少なくとも、この世界で目覚める前の話だと思うんですが……。すみません、今すぐは思い出せそうにないです」

 思い出せた時に改めて伝えると告げると、ミグは「分かった」と話を戻す。

『うちは人型アーティファクトの研究に深く携わっていたわけじゃないから、これ以上は知らないんだけど……。ただやっぱり、至誠には何かあるんだと思う。普通の人はまず関わることの出来ない存在だと思うから。――ちょっと体を借りるよ』

 ミグは改めて断りを入れると、金属片を持っている左手を目線の高さまで掲げる。
 右手にあった冊子を左腋に挟むと、すいた右手を金属片に添えた。

 直後、魔法陣らしき模様が至誠の手の周りや、皮膚の上に浮かぶ。

『鬼道で簡単に見ただけだけど、今すぐ悪影響が及びそうにはない。だけどどんな能力が内包されているかは……現時点では、まるで分からないね』

 時間にすると一分にも満たない時間でミグは結論づける。

 その間にミグは冊子の方を手に取り直し、本文を確認する。

『霊体における多段階層構造の構築と運用について――』

 冊子を開き最初の見出しをミグは呟くように読み上げる。

 至誠にはその文字がまるで分からなかったが、日本語であっても理解できないことだけは理解できた。

『霊体に霊体を内包する方法――って事かな。って事は死霊術関連かも……』

 そう呟きながら、ページをめくり目を通していく。

『霊体の抽出と注入について……』

『子霊体へのアクセス方式と管理権限について……』

『祝福による弊害と、その注意点……』

 ざっくりと目を通すと、しばらくの沈黙の後に呟きは再開する。

『どういう状況を想定した霊術なんだろ……』

 至誠は答えるどころか、その呟きに割って入ることも難しい。

 だが事情を知っているかも知れない男が渡してきた物品だ。
 その内容の精査を邪魔する事は、自分の不利益にも繋がりかねない。

 そのため至誠はただ静観する。

『死霊術なら死後の、消滅前の魂に干渉するのが基本……。だけどこれは生前の体から魂を抽出するって事だよね……。いや、死後でも霊体があるなら可能か……』

 考えを整理するように呟いていたミグだったが、ふと我に返り自分を叱咤する。

『考えはじめると、ふけって周りが見えなくなっちゃうのは治さないと――』

「いえ、大丈夫です。僕としても、何かの手がかりがあれば助かりますし」

 まだ冊子の中身を見ていても構わないと至誠は告げるが、いや――と冊子を閉じる。

『アーティファクトについてはひとまず置いておこう。今は時間的猶予がないかも知れない』

 至誠の体を使い、ミグは視線を上空へと向ける。

 裏路地から見上げる小さな空には太陽はなく、青空と小さな雲が流れているだけだ。

『今は正午くらいだね。この街に不時着して、八時間から一〇時間くらい経ってると考えた方がいい』

 太陽は直上になかったが、日の入り方と影のできかたからある程度の時間を予測したのだろうと至誠は理解する。

 その上で、ミグは視線を再び戻しつつ懸念を告げる。

『追ってきた怨人えんじんは速度に特化しつつ防御も厚く、強力な個体だった。けど、その個体を数分内に処理できる実力がこの街にはある。これは至誠が気を失った後の出来事だけどね』

 ミグの言わんとしている事を至誠もなんとなく理解し、おそるおそる問いかける。

「他の三人は……どうなったんですか?」

『結論から言えば、ほとんど分からない。唯一、テサロがまだ生きている事は分かる。彼女の体内にはウチの体の一部――副次臓器があるかね』

「今の僕のように、テサロさんの体を動かすと言うのは――」

『距離が離れすぎていると出来ないんだ。だから動かそうと思ったら、ある程度近づかなくちゃならない』

 それでね――と、ここからが本題だと言わんばかりの口調で、ミグは続ける。

『ウチらは選択しなくちゃいけない』

 選択という言葉が何を意味しているか、ミグの言葉を待たずして理解できてしまった。

「助けに行くか、行かないか……と言う事ですか?」

『そう。というか、本来なら助けに行けない。選択肢なんてなかったはずなんだ』

 ミグは謝罪をにじませたような口調でその理由を教えてくれる。

『至誠が気を失ったのは、生き残るために至誠の体をうちが完全に支配下に置いて、無理矢理に力を使ったせいなの。けど、その代償として体中の筋肉や筋、骨なんかの様々な箇所が損傷していたはずだった』

 本来であれば、痛みを止め、最低限の応急処置を施して早急に待避する。
 それが唯一の選択肢のはずだった。

 だが謎の人物によってその損傷は完治している。
 すなわち、必ずしもその選択肢をとる必要性はなくなった。

 いや、むしろ逆だ。

 完治した状態だからこそ、より生存率が高い状態で待避することができるようになった。

『けど、怪我はない。そして今なら不浄の地に面していない箇所は手薄だと思う。身の安全を考えたら、ここで動くしかないと思う』

 ミグと同じ結論に達するが、至誠はさらに考えを巡らせる。

『うちとしては、三人を助けたいって気持ちはもちろんある。だけど、この街や国の情勢も戦力も分からない。風習や文化も不明で、土地勘もない』

 すなわち、救出は絶望的だということだ。

『それに至誠は、三一番ことニコラ・テスラが自ら接触してくる人物。ましてや他に前例のない未知の国、あるいは未知の世界の住人。君の代わりはいない』

 悪い言い方をすれば、三人の代わりは国にいくらでもいる――ミグはあえてそんな言い方をした。

『うちはリネーシャ陛下の眷属として、至誠を皇国まで無事に連れて帰り、そして身の安全を担保する使命がある。その使命と責務は、三人よりも重い……』

 本心ではそう思っていないのだと、至誠にはすぐに理解できた。
 それほど断腸の思いが伝わる言い草だったからだ。

 助けたいと思っている――と言っていた方が本心だろう。

 だが理想を押し通せないだけの不利な状況と責任が、ミグにそんな言葉を口にさせているのだとくみ取った。

 だからこそ、あえて聞いてみる。

「それは、僕が決めていいことなんですか?」

 もしも真に職務に忠実であるならば、ミグの言い回しは矛盾する。

 ともかく今は逃げる――そう言い切ってしまえばいい。
 最悪、ミグは強制的に体を動かせるのだから。

 それでもあえて至誠に同意を求めるように言葉を選ぶのは、いくつかの理由が考えられる。

 一つは至誠が逃走の途中で反発する可能性についてだ。

 逃走劇がどれほどの期間になるかは分からない。
 空を飛び一日以内に付けるのであれば、このような事は言わないだろう。
 ある程度長期間に及ぶのであれば、途中で勝手な行動をすれば生存率を下げることになる。

 ミグも先ほどまで寝ていたのか、あるいは気を失ったのか。少なくとも意識は無かった。

 そしてその間、至誠の体は自由に動かせるようだ。

 すなわち、途中で「やっぱり三人を助けに戻る」なんて言い始めた場合、ましてや睡眠中に勝手に動かれた場合のリスクが非常に高い。

 ならば今、二人で「自分たちの身の安全を優先する」と決めておいた方が良い。
 仮に途中で気持ちが揺らいでも、あのとき決めたのだからと説得もしやすいものだ。

 二つ目はミグの心情的にもそれが楽なことだ。

 ミグの使命において最も大事なのは至誠という個人の生命だ。

 テサロやリッチェと深い親交があることは、不浄の地から逃げるときのやりとりを見ていれば想像に難くない。
 仲間か、親友か、家族か。
 どのような親交だったかは至誠には分からないが、断腸の思いが言葉に乗ってしまう程の親密さであったことは分かる。

 だが最優先事項である至誠という個人が「自分の身の安全を優先する」と言えば、ミグは「親しい者を見捨てた」と判断したのではなく、使命において優先事項である至誠の「意向を尊重した」と考えることができる。

 ミグの心理傾向を知っているわけではないが、そう思った方が精神衛生上よい人は多いだろう――と、至誠は考える。

『そういうわけじゃないけど――』

 どう思っているにせよ、ミグとしてはそう言うしかないだろう。
 だから、至誠は遮るように口にする。

「少しだけ、考えても良いですか?」

『……わかった』

 もう一度メンタルをリセットしておこう――そう考えながら再び空へと視線を向ける。

 見上げた狭い青空に小さな雲が緩やかに流れている。

 至誠は意識を天空のさらにその先の宇宙へ向ける。

 地球。
 太陽。
 太陽系。
 銀河系。
 銀河団。
 スローン・グレートウォール。

 たとえその比較が想像の中だけであろうと、身長たった一七四センチメートルの自分はあまりにもちっぽけな存在だと教えてくれる。

 宇宙が誕生して一三七億年。

 ではそれ以前には何があったのか。
 宇宙は広がり続けているとされていたが、ではその外側には何があるのか。
 宇宙が誕生した頃、それ以前に自分という概念はどこにいたのか。
 数億年後、数百億年後、自分という自我はその時どうしているのか。

 その事を考えると、いつも決まって底なしの恐怖に襲われる。

 宇宙的恐怖。
 至誠はそう呼んでいた。

 どんなに不快な思いをしても、どれほど苦汁を嘗めても、その宇宙的恐怖の前では全てがちっぽけに思える。

 怨人と呼ばれていた化け物もそうだ。

 忌避したくなる気持ち悪さはあるが、宇宙の規模からしてみれば塵にも満たないちっぽけな存在だ。

 そんな宇宙的恐怖で、他に抱いている負の感情を全て飲み込ませる。

 それが至誠のメンタルをリセットする切り札だ。

 だが宇宙的恐怖だけでは心を疲弊させる。
 そのままでは心がすり減り病んでしまうかも知れない。発狂してしまうかもしれない。廃人になってしまうかもしれない。

 それほどの諸刃の剣だ。

 だから至誠は、決まって祖父のある言葉を思い出す。

「生まれてきたことに意味はない。生きることに価値はない。それでも人はなぜ生きるのか。なぜ生きたいと願うのか」

 そんな祖父の言葉は、よく周りから偏屈な暴論だと揶揄されていた。

「人は皆、死に際に良き人生だったと充実して死にたいのだ。富も権力も名声も、死の花道を彩る手向けに過ぎない。どれほどのモノを手に入れようとも、最後の最期で自分に満足できない輩の人生は無価値だ」

 それでも至誠は、祖父の論理が好きだった。

「人が動物と違うの何か。二足歩行か? 言葉か? 文字か? 科学か? 断じて違うぞ。ただ長生きする輩と、生存本能に従う動物と何が違う。富や権力を求める輩と、群れのボスになりたがる動物のどこが違う。人の生涯など、動物となにも変わらんではないか。では、人が人たる所以はどこにあるのか」

 お札もただの紙だ。宝石もただの物質だ。美術品も原材料だけを見ればガラクタも同然だ。

「――それは無価値のモノに価値を見いだせる事だ」

 しかし人はそれらに価値を付加する。
 動物として生きて行くには不要にも関わらず、そこに価値を見いだす事ができる。

「ならば人が人たり得る生き様とは何か。意味のない人生に、自分自身が価値を見いだせるか否かだ」

 生まれてきたことに意味はない。
 どうせあと五〇億年もすれば太陽は寿命を向かえ地球は飲み込まれ、地球上の生物はもれなく死滅する。

 なればこそ。
 無価値で儚い一瞬の命の灯火に価値を見いだせた者が、真に人たり得る生き方だ。

「家族も他人も国も法律も宗教も関係ない。今際いまわきわに誇って死ぬ。満足して死ぬ。納得して死ねる。価値ある生き方とは、そういうものだ」

 偏屈だと言われていた祖父の言葉は、至誠のメンタルをリセットするための後段の一家言いっかげんだ。

 一瞬にして鳥肌が全身を通り過ぎ、同時に心の奥底から奮い立つ感覚を覚える。

 この格言があるからこそ、至誠は宇宙的恐怖に正面から向き合うことができている。

 至誠は考える。

 自分は今、知らない世界にいる。
 ここが遙か未来か、異世界かは定かでは無い。

 しかし、今、自分はここに居る。
 ならば「我思う、故に我あり」。
 今はそれでいい。

 では、自分の生き様とは、価値のある生き方とは何か。
 自分が死に際に満足たりえる生き方とは何か。

 彼女らは恩人だ。

 仮死状態だった自分を蘇生してくれた。
 食事もごちそうになった。
 化け物から無事に逃げ切ってくれた。

 たとえ出会ってからの時間が短かろうと関係ない。
 一宿一飯の恩義であろうとも、その相手が今度は困っている。
 今この瞬間にも苦しんでいるかもしれない。

 ならば「自分だけが助かればそれでいい」なんて恥を晒した生き様に価値はあるのか?

 ――いや、ない。

 だったら答えは一つだ。

「――ミグさん」

 至誠は視線を地上へ戻しながら、口を開いた。

「あのとき言った言葉は、変わりませんよ」

 ミグはまごつく心境を抑えられなかった。

 至誠の心理の波が急速に恐怖に振り切れた。
 かと思えば一瞬にして反転し、直後に高揚した。
 それに留まらず、今では穏やかになったからだ。

 この心理パターンは不浄の地にて一度経験していた。
 至誠はこの異常な心理の直後、不浄の地を脱する策を口にした。

『……あのとき?』

 そして今もあの時と同じように凜とした表情で告げる。

「全員死ぬか、全員生き延びるかです」